8話 偶然
「やっぱりそうだ! こんなところで会うなんて、びっくりした」
天瀬さんの隣にいた少女が一歩前に出た。
「陽菜ねぇ、知り合い?」
天瀬さんより少し背の低い女の子。
肩までの髪を揺らして、興味津々といった様子で俺を見上げてくる。
「うん。お友達の高梨くんだよ」
値踏みするような視線が、上から下まで容赦なく俺をなぞった。
「あっ……陽菜ねぇ、もしかして、あの高梨さん!?」
七海ちゃんは、驚きと納得が混ざったような声を上げ、俺の顔をまじまじと覗き込んできた。
「あー、なるほど! そういうことかぁ。ふふっ、陽菜ねぇが言ってた通り、なんだか……」
「七海、それ以上はダメ」
天瀬さんが少し顔を赤らめ、妹の口を塞ぐようにして一歩前に出た。
「この子は妹の七海。今日は一緒に買い物に来てて」
どうやら、この子が妹らしい。
「こんにちは」
肩までの髪を揺らしながら、丁寧に小さく頭を下げた。
所作が落ち着いていて、声も柔らかい。
「妹の七海です。陽菜ねぇから噂は聞いています」
――噂?
その単語が、やけに引っかかった。
噂って何だよ……
思わず口に出しかけて、慌てて飲み込む。
聞き返せる雰囲気じゃないし、聞き返したところで、ろくな答えが返ってくる気もしない。
ちらりと天瀬さんを見ると、視線が合う前に、すっと逸らされた。
……絶対、ろくな噂じゃない。
胸の奥が、得体の知れない不安で妙にもぞもぞする。
噂ってなんだ。天瀬さんは家で俺のことを一体どう説明しているんだ……。
何をどう吹き込まれたのか想像しようとして、一瞬で思考をシャットダウンした。想像した時点で、俺の精神的敗北が確定する気がしたからだ。
一方で、七海ちゃんはというと。
俺と天瀬さんを交互に見比べて、楽しそうに口元を緩めている。
やめてくれ……その「すべてを把握しました」と言わんばかりの笑みが、今は何よりも恐ろしい。
すると、そんな逃げ場のない沈黙を切り裂くように、聞き慣れた嵐の予感が背後から飛び込んできた。
「お兄ちゃーん! お待たせ!」
振り向いた先には、両手に紙袋をぶら下げた俺の妹が立っていた。
「あれ? なにこのメンバー」
妹の視線が、俺 → 天瀬さん → 七海、と順番に移動する。
最後に、にやりと嫌な笑みを浮かべた。
「もしかして、お兄ちゃん。ナンパ?」
「違う!」
「じゃあ誰?」
「友達……だよ」
言った瞬間、自分でも分かるくらい歯切れが悪かった。
友達という二文字が、妙に重い。
すると、天瀬さんが一歩前に出て、静かに口を開いた。
「高梨くんのお友達の天瀬陽菜です」
はっきりとした声音。
その一言で、空気がすっと整う。
俺の心臓だけが、なぜか落ち着かないままだった。
「ふーん……」
妹は、じっと天瀬さんを見つめる。
値踏みするようでいて、どこか楽しげな目。
やがて、ふっと表情を緩めると、軽く一歩前に出た。
「妹の結衣です」
さらっとした自己紹介。意外なほど礼儀正しい。
妹は一瞬だけ口角を上げると、俺にだけ聞こえる距離まで身を寄せてくる。
「お兄ちゃんにも、ちゃんと学校の友達いたんだ」
「余計なお世話だ」
「しかも、こんなきれいな人」
余計な一言に、俺は思わず視線を逸らした。
その一方で、結衣の視線はまっすぐ天瀬さんへと向けられた。
「お兄ちゃんって学校ではどんな感じですか?」
――やめろ、妹よ。そんなこと、本人の前で聞くものじゃない。
天瀬さんは一瞬だけ呼吸を整えるように視線を伏せ、それから静かに顔を上げた。
「そうだなぁ」
曖昧に笑って流すかと思った。
けれど、天瀬さんは言葉を選び、きちんと答えた。
「一緒にいると、不思議と安心する人だよ」
穏やかで、まっすぐな声音。
「あとは、面白い!」
結衣は、へえ、と小さく声を漏らした。
「そうなんだ、お兄ちゃん」
その言葉が、妙にくすぐったくて。
俺はただ、噴水の水音に紛れるように、黙って視線を逸らした。
「あ、そうだ! 陽菜さん、七海ちゃん。せっかく会えたんだし、記念に一枚撮りません?」
「え、写真?」
俺が驚く間もなく、結衣は手慣れた動作でスマホを構えた。
「それいいねー! 撮ろう!」
天瀬さんは意外にもノリ気な返事をした。
「ほんとですか!? やった! じゃあ七海ちゃんもこっち!」
「はーい!」
「ほらお兄ちゃん、そんなとこに突っ立ってないで。陽菜さんの隣! もっと寄って寄って!」
「ちょ、おい……」
無理やり押し出され、俺は天瀬さんのすぐ隣に並ばされた。
天瀬さんの肩が、俺の腕に触れそうなほど近い。ふわりと、シャンプーのような、あるいは洗練された香水のような、微かな甘い香りが鼻をくすぐる。
俺の心臓は、噴水の音をかき消すほどの音量で跳ねている。
「いくよー、はい、チーズ!」
軽快なシャッター音が響いた。
画面を確認した結衣が、「うわ、最高!」と声を上げる。
「じゃあお兄ちゃんに送るから、陽菜さんに送ってあげてね!」
俺は慌てて結衣の肩を引き寄せ、耳元で声を潜めた。
「……おい、結衣。俺、連絡先なんて交換してねーよ」
結衣は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに「はぁ?」という、信じられないものを見るような顔で俺を見返してきた。
「もう、お兄ちゃんってば本当にヘタレなんだから! 今すぐ聞きなさいよ!」
「お、お前、そんな急に……」
「高梨くん」
不意に名前を呼ばれ、俺は肩を跳ねさせた。
視線を向けると、天瀬さんが楽しそうに、にこにこと笑っている。
「スマホ、貸して?」
「え、あ、うん」
天瀬さんは「ありがとう」と軽やかに受け取ると、手際よく操作を進めていく。俺がヘタレて言い出せないでいるのを分かっているのか、彼女の動作には一切の迷いがなかった。
「はい。これでよし!」
返されたスマホの画面には、新しく追加された彼女の連絡先。
天瀬さんは満足げに目を細め、上機嫌な様子で俺を見つめた。
返されたスマホを握りしめたまま、俺はしばらく画面を見つめていた。
保存されたその一枚には、少し照れたような天瀬さんと、明らかに挙動不審な俺の姿が並んで写っている。
――送るんだよな。
結衣の視線が背中に突き刺さっているのを、嫌というほど感じる。
逃げ道は、もうない。
俺は覚悟を決めて、メッセージアプリを開いた。
表示された連絡先の一覧には、母さん、結衣。
その中で、まだ一度も言葉を交わしていない名前が、やけに目についた。
――陽菜。
一瞬だけ、指が止まる。
けれど、ここまで来て引き返すわけにもいかない。
俺は意を決して、その名前を選んだ。
プレビュー画面に、さっきの写真。
送信ボタンが、やけに主張して見える。
「……よし」
送信。
たったそれだけの操作なのに、心臓が一拍遅れて跳ねた。
画面を閉じても、胸の奥のざわつきは消えない。
数秒後。
――ピロン。
手の中で、スマホが小さく震えた。
通知を確認すると、天瀬さんからのメッセージ。
丸っこいくまが、ぺこりと頭を下げているスタンプ。
――「ありがとう」。
この場にこれ以上いたら、俺の心臓は物理的に爆発する。
「結衣、そろそろ行こうか」
「えー、もう? まだ陽菜さんたちとお話ししたいのにー」
結衣は不満げに唇を尖らせたが、俺の限界を察したのか、それとも戦利品の重さにようやく気づいたのか、「ま、いっか」と肩をすくめた。
「じゃあ、俺たちはもう行くから。荷物もいっぱいだし」
逃げるようにそう告げると、天瀬さんは名残惜しそうにしながらも、小さく頷いた。
「わかった! 高梨くん、また学校でね」
七海ちゃんが俺の顔をじっと見つめ、いたずらっぽく片目を瞑ってみせる。
「お兄さんも、また! 陽菜ねぇをよろしくお願いしますね?」
「……あ、うん。またね」
「よろしくお願いします」の意味を深く考えるのはやめた。考えた瞬間、また心拍数が跳ね上がるのが分かっていたから。
七海ちゃんが元気よく手を振り、天瀬さんもそれに続くように優しく手を振ってくれた。
オレンジ色の夕日に照らされながら歩く、帰り道。
腕に食い込む袋の重みも、今はなぜかそれほど苦ではなかった。
「お兄ちゃん」
「……なんだよ」
「今日、連れ出してあげて良かったでしょ?」
結衣が、勝ち誇ったような顔で俺の顔を覗き込んでくる。
俺は「……まあな」とだけ短く答え、わざと視線を遠くの空に逸らした。
「陽菜さん、すごいいい人そうだったね。お兄ちゃんに、安心するなんて言ってくれる人、他にいないよ?」
俺は無言で歩く速度を少しだけ早めた。
背中越しに、結衣の楽しそうな笑い声がついてくる。
家に着いて、ご飯と風呂を済ませ、ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
――ピロン。
慌ててスマホを取り出す。
通知画面。名前は「陽菜」。
『無事に家についたかな? 今日はびっくりしちゃった。まさか高梨くんに会うなんて! 少しお話できてよかった。また学校でね! おやすみなさい』
メッセージの最後には、お腹を上に向けて無防備に転がり、スヤスヤと眠っている小さな犬のスタンプが添えられていた。
「……なんて返せばいいんだ、これ」
天井を見上げ、独り言が漏れる。
学校なら、いつものように適当な冗談を言って流せるかもしれない。
でも、画面越しの文字は、あまりにも「天瀬陽菜」という個人の温度を感じさせて、どうしようもなく指が竦む。
『俺もびっくりした。おやすみ』
一度打ち込んで、すぐに消した。
さすがにそっけなすぎる。これではあまりに失礼だ。
『今日はありがとう。妹が騒がしくてごめん』
二度目の下書き。
……短すぎる。
これじゃ、会話を切り上げたいみたいじゃないか。
指が止まったまま、俺は画面を睨みつける。
気づけば、時計の針は三十分も進んでいた。
ただの一通の返信に、数学の難問を解く以上の集中力と精神力をすり減らしている。
ふと、さっき結衣が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
『お兄ちゃんに、安心するなんて言ってくれる人、他にいないよ?』
……そうだよな。
俺は深く息を吐き、熱くなった指先を動かした。
凝った言葉も、気の利いた冗談もいらない。
『無事に着いたよ。俺も驚いたけど、今日会えたのはすごく嬉しかった。また学校で。おやすみなさい』
送信ボタンを押した瞬間、恥ずかしさでスマホを枕の下に叩き込んだ。
顔が火照って、心臓がうるさい。
そう思いながら目を閉じる。
けれど、しばらくの間、眠りはなかなか訪れなかった。




