6話 隣のきみ
二限目は選択科目の移動教室。
授業開始までまだ時間があったこともあり、俺はなんとなく机にうつ伏せになって目を閉じた。
冷たい木の感触が、妙に心地いい。
周囲の話し声も、椅子を引く音も、だんだん遠くなっていく。
ほんの少しだけ目を閉じるつもりだった。
――夢を見ていた。
周囲は青い光に包まれている。
巨大な水槽の向こうに、色とりどりの魚たちがゆらゆらと漂っていた。
潮の香り……というより、ほんのり塩気のある空気。
光は水面を通して揺れ、床に映る波紋が幻想的に揺れる。
その中で、ふわり、と甘い香りが鼻先をくすぐった。
顔を上げると、そこには天瀬さんがいた。
いつもより少しだけ潤んだ瞳。
彼女は優しく微笑み、ゆっくりと、磁石に吸い寄せられるように俺の方へ近づく。
え……待って、これって……
あまりの近さに、彼女の長い睫毛が数えられるほどだ。
触れ合うほどの間近で、彼女の柔らかな唇が小さく弧を描く。
「……高梨くん」
名前を呼ばれ、吐息が重なる。
待ってくれ、心の準備が……。
キスされる。そう確信して、俺がギュッと目を閉じた――その瞬間。
「――っ!?」
ガバッと、弾かれたように上半身を起こした。
キーンコーン、カーンコーン。
脳内をかき回すようなチャイムの音が、俺を無理やり現実へと引き戻す。
「……はぁ、はぁ……」
荒い呼吸が止まらない。心臓がうるさいほど脈打ち、身体中に熱がこもっている。
冷たい木の机の感触を確かめながら、俺は一つ欠伸を噛み殺すふりをして、必死に現実の感覚を取り戻そうとした。
まだ視界がぼやけている。
目をこすりながら、隣の席に目を向けると――。
視界に入ったのは、白いノート。
丁寧な字。
そのすぐ横で、シャーペンを止めてこちらを見る視線。
「おはよう。高梨くん」
そこには、いつの間にか席に着いていた天瀬さんが、頬杖をついてこちらをじっと見つめていた。
「え、あ、天瀬さん!?」
心臓が跳ねた。慌てて背筋を伸ばし、寝癖がついていないか髪を手で整える。
「ふふ、そんなに驚かなくても。高梨くん、すっごく気持ちよさそうに寝てたから、起こさないほうがいいかなって思って」
思考が、完全に止まる。
俺が固まっていると、天瀬さんは小さく笑った。
「席、隣だね」
「……そう、みたいです」
かろうじて絞り出した声が、情けなく裏返る。
心臓がまだ、全力疾走したあとのように激しく警鐘を鳴らしていた。
落ち着け……。あれは夢だ。ただの夢なんだ。
自分に言い聞かせるが、至近距離にいる天瀬さんの吐息が、さっきまで夢の中で感じていた熱と重なって、どうしても意識してしまう。
隣に、天瀬さんがいる。
それだけで、頭の中がいっぱいになる。
「ふーん……」
天瀬さんが、頬杖をついたまま目を細めた。
探るような、どこか楽しげな視線。
「高梨くん、さっきから顔赤いけど……。もしかして、そんなに私と隣なのが嬉しいの?」
「っ! べ、別にそんなんじゃ……!」
「え、違うんだ。私は嬉しいけどなぁ」
心臓が、変な音を立てた。
そんなふうに言われるとは、思っていなかった。
意外で、どう反応していいか分からなくて、ただ黙るしかなかった。
「ほら、高梨くん」
小さな声。
「授業、始まるよ」
先生が教卓に立ち、出席簿を開く音。
周囲のざわめきがすっと引いて、ペン先が一斉にノートへ向かう。
――助かった。
今は授業に集中すればいい。
そう思ったのに。
天瀬さんは前を向いたまま、ほんの少しだけ体をこちらに寄せてきた。
「……ね」
小さな声。
息が、近い。
「さっき、夢でも見てた?」
「っ……!」
反射的に肩が跳ねる。
「な、なんで……」
「だって」
彼女はノートに視線を落としたまま、くすっと笑う。
「寝言、ちょっとだけ聞こえたから」
「――!?」
頭が真っ白になる。
俺、何か口に出してたのか?
「な、ななな、何て……」
「んー?」
わざとらしく間を置いてから、天瀬さんは楽しそうに続けた。
「『待って』って」
心臓が、また暴れ出す。
「ゆ、夢です! 完全に夢ですから!」
「ふふ、そっか」
否定する俺を、天瀬さんは否定しない。
それが逆に、落ち着かない。
「じゃあ……どんな夢だったの?」
「言いません!」
――勘弁してほしい。
さっきまで見ていた夢の内容なんて、口が裂けても言えるわけがない。
先生が教科書を開く音。
教室が一気に静まり返る。
「それじゃあ、今日は――」
先生が黒板に文字を書き始める。
チョークの音が、やけに大きく聞こえた。
そこで、隣から小さく、
「……あ」
という声が聞こえた。
視線だけで横を見る。
天瀬さんが、机の上を確認している。
「どうしたの?」
俺が小声で聞くと、天瀬さんは困ったように眉を下げた。
「教科書……忘れたかも」
「え、ほんとに?」
「たぶん、教室に置いてきちゃったかも」
言いながら、ぺこっと小さく肩をすくめる。
その仕草が妙に可愛くて、さっきまでの夢の残像が、また頭をよぎった。
――落ち着け。
先生が黒板に書き始める。
今から取りに行くのは、さすがに無理だ。
天瀬さんは一瞬考えたあと、ちらっと俺の教科書に視線を落とした。
「……ねえ、高梨くん」
声を潜めて、そっと距離を詰めてくる。
「教科書、見せてもらってもいい?」
耳元で囁かれて、背中がぞくっとした。
近い。近すぎる。
「も、もちろん……」
俺は慌てて教科書を少し中央にずらす。
「助かるー。ありがと」
そう言って、天瀬さんは椅子を俺の方へと引き寄せた。
ガタッ、と小さく床が鳴る。
近い……。近すぎるって……!
教科書を開いているはずなのに、文字が全く頭に入ってこない。
視界の端には、熱心にページを追う彼女の横顔。
さらりと流れる髪から、あの夢と同じ甘い香りが漂ってきて、俺の理性をじわじわと削り取っていく。
天瀬さんは何事もない顔で、ページを指でなぞりながら文字を追っている。
真面目そのものの横顔。
なのに、その落ち着きが、逆に俺の心臓に悪い。
――なんでそんな平然としていられるんですか。
俺の内心の悲鳴なんて知らずに、天瀬さんは小さく頷いた。
「……あ、ここね」
彼女の指が、教科書の一行を軽く叩く。
その拍子に、また少しだけ距離が縮まった。
近い。近すぎるって……!
「高梨くん?」
ふいに名前を呼ばれて、思わずびくっと肩が跳ねた。
「な、なに?」
「さっきから、全然ページ見てないけど……大丈夫?」
心配そうに首を傾げられて、胸がきゅっと締めつけられる。
「い、いや……その……」
――見てるわけないだろ。
文字より、隣の存在感のほうが強すぎるんだから。
「……もしかして」
「私が近いから、集中できない?」
「そんなことないよ……大丈夫だよ」
先生の声が黒板の方から響く。
「そこ、重要だからな。線を引いておけ」
天瀬さんは小さく返事をして、ノートにペンを走らせた。
これで集中しろっていう方が、無理だと思う。
ペン先の音。
肩が触れそうな距離。
ふとした拍子に揺れる髪。
視界の端に入るそれら全部が、いちいち気になって仕方がない。
もしかして、俺だけなのか?
他の人は、こんな状況でも平然と授業を受けられるものなんだろうか。
そう思っていた矢先、天瀬さんがさらさらとノートの隅に何かを書き始めた。
……板書じゃない?
盗み見るように視線を向けると、そこに描かれていたのは、丸くて、ちょっとデフォルメされた動物の絵。
つぶらな目。短い手足。
ふにっとした輪郭。猫の絵が描かれていた。
……かわいい
無駄に完成度が高い。
というか、妙に愛嬌がある。
天瀬さんはそれをペン先でトントンと叩き、俺の方を見てニヤリと笑う。
「……?」
俺が首を傾げると、彼女は素早くペンを動かし、文字を添えた。
『絵しりとり。負けたら、夢の内容を教えること』
とんでもない爆弾を放り込んできやがった。
負けられない。絶対に負けられない戦いが、この教科書の端っこで幕を開けた。
俺は震える手でシャーペンを握り、ねこの「こ」から繋がる絵を、必死に脳内検索する。
「こ」……「こ」。
咄嗟に思い浮かんだのは、こあらだった。
問題は、俺の画力だ。
俺は一度だけ深呼吸して、ノートの余白にペンを走らせた。
丸。耳っぽいもの。
木にしがみついている……つもりの腕。
……つもり、だ。
完成したそれは、どう見ても「何かに捕まっている灰色の物体」だった。
そっとノートを天瀬さんの方へ寄せる。
天瀬さんは一秒、二秒、じっと見つめてから、口元を押さえた。
「……ぷっ」
天瀬さんが、吹き出すのを必死に堪えて肩を震わせる。
笑うな。頼むから、笑わないでくれ。
「ラ」から始まる何かを、迷いなく描き進める。
彼女は肩を小刻みに揺らしたあとに「なにこれ、ひどい!」と言いたげな目で俺を見ると、俺の絵の横に小さく書き足した。
『……こあら?』
疑問形なのが一番つらい。
俺が無言でうなずくと、天瀬さんは「そっかぁ」と楽しそうに頷くと、さっとノートを自分の前に開き、ペンを走らせる。
丸くふわふわの体。小さな手足。ぷっくりした顔。
手にはちょこんと貝を握らせて、ぷかぷかと水に浮かぶ「らっこ」の姿が軽やかな線で描かれていく。
かわいい。めちゃくちゃかわいい。
悔しいが、完敗だ。画力の暴力的な差に眩暈がする。
だが、見惚れている暇はない。
次は「らっこ」の「こ」。またしても「こ」の呪縛が、俺を襲う。
「こ」……また「こ」かよ! コアラ以外に何か……
脳内コンピュータをフル回転させ、俺は決死の覚悟でシャーペンを走らせた。
一本の棒。その上に、歪な楕円。申し訳程度に「つぶつぶ」を書き足して、俺はそれを天瀬さんに差し出した。
これならいける。誰がどう見ても「とうもろこし」――いや。
「……あ」
差し出した瞬間、脳内に激震が走った。
天瀬さんはノートを覗き込み、一瞬だけ動きを止める。
それから、これ以上ないほど満面の笑みを浮かべて、俺の顔を覗き込んできた。
彼女はさらさらと、俺が描いた「つぶつぶの物体」の下に、死の宣告を書き込んだ。
『……コーン?』
あ。
終わった。
天瀬さんは机に突っ伏して、声を殺しながら肩を震わせる。
自爆だ。画力の問題以前に、しりとりとしての禁忌を、俺は自らの手で犯してしまった。
天瀬さんは、ノートの端に大きくこう書いた。
『はい、高梨くんの負けー!』
俺の目が点になる。
続けて、小さく文字を走らせる天瀬さん。
『夢の内容は……?』
俺は慌ててノートを握り、でも本当のことは絶対に書けない。
だって、あんな夢……。
恥ずかしくて、現実で言えるわけがない。
考えた末、俺は小さな字でこう書いた。
『水族館……』
天瀬さんがふふ、と笑う。
『水族館……?』
水族館なら嘘ではない。
魚もいたし、暗い館内で薄明かりが揺れていたし……。
天瀬さんはノートに文字をさらさらと走らせる。
『私、水族館すきだよ』
文字だけなのに、声が聞こえてくるようで、胸の奥がじんわり温かくなる。
『今度、一緒に行こうね!』
えっ、今度? 一緒に?
思わず目が丸くなり、心臓がドクンと跳ねた。
見上げると、彼女はにこっと笑った。
その微笑みに、胸の奥がふわりとほどける。
どうしてこんなに、心が温かくなるんだろう――。
今日は、夢も現実も、ほんの少しだけ甘くて優しい時間になった。




