4話 二人の距離
学校における俺の正解は、「風景の一部になること」だ。
一限と二限の間の、わずか十分の休み時間。
周囲は一斉に賑やかさを増し、椅子の引きずる音や誰かの笑い声が、狭い教室の中で激しくぶつかり合っている。
その音の渦に背を向けるように、机に視線を落とし、教科書を次の時間のページへ静かにめくった。
話しかけられることもなければ、誰かを呼ぶこともない。
窓の外を流れる雲を眺めたり、筆箱の中のシャープ芯のストックを確認したり、どうでもいいことに意識を向けて、時間が過ぎるのをじっと待つ。
これが最も落ち着く正しい過ごし方なのだ。
トイレに行くために廊下に出る。
休み時間の廊下は、まさにカオスだ。はしゃいでる男子、鏡の前で前髪を直す女子、そしてあちこちで幾重にも重なる笑い声の輪。
壁際を、なるべく気配を消して歩く。
自分のような人間にとって、この賑やかすぎる空間は、ただ通り過ぎるだけでも神経を削られる戦場に近い。
そしてふと、前方からひときわ大きな笑い声が聞こえてきた。
――あ。
そこには、完璧にクラスの中心に馴染んでいる天瀬さんがいた。
女子グループに囲まれ、さらに通りすがりの男子からも「天瀬、おはよー!」と声をかけられ、それに明るく応じている。
……あんなに、友達ができたんだ。
天瀬さんは、数人の友達に囲まれ、身振り手振りを交えて楽しそうに笑っている。
その姿は、いかにもこちら側ではない世界の住人で、昨日のバイト先や帰り道での出来事が、全部僕の都合のいい夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。
俺は、視線を斜め下へと落とした。
すれ違う瞬間、存在を消すように歩幅を速める。
――気づかれない。それでいい。
そう自分に言い聞かせ、彼女たちの横を通り過ぎようとした、その時。
ふっと、視線を感じた。
顔を上げると、友達の話に相槌を打っていたはずの天瀬さんが、こちらを見ていた。
俺を見てるのか?
彼女は一瞬、いたずらが成功した子供のような顔をして、友達に見えない位置、自分の腰のあたりで、小さくちょこちょこと指先を振った。
声には出さない。ほんの一瞬の、俺にしか見えない合図。
「……っ」
心臓が不意打ちを食らったように跳ねる。
天瀬さんは何事もなかったかのように、隣の友達との会話に戻り、笑いながら去っていった。
僕は立ち止まることもできず、ただ熱くなった耳を隠すように、足早に自分の教室へと滑り込んだ。
「ああいうのは……ずるいだろ」
昨日、本屋の棚の隙間で一緒に笑ったり、夕暮れの道を並んで歩いたりしたのは、本当に現実だったんだろうか。
もしかして、彼女にとっては、あの時間は単なる「暇つぶし」のひとつに過ぎなくて、星の数ほどいる友達の中に、自然と溶けてしまう程度の出来事だったのかもしれない。
……いや、そもそも友達にすらなれているのか?
さっき、彼女が小さく手を振ってくれた。
でもあれだって、道端の猫に挨拶するくらいの、深い意味のない気まぐれだった可能性は高い。
そう思うと、昨夜必死にトークスクリプトなんて書いていた自分が、たまらなく惨めで、馬鹿らしく思えてくる。
「……あんなに、住む世界が違うのに」
慌てて首を振る。
期待するな。都合よく解釈するな。
今まで何度、そうやって勝手に落ち込んできたと思ってる。
四限が終わると、教室は一瞬で騒がしくなった。
俺はいつものように、お弁当を持って、逃げるように教室を出た。
向かったのは、いつもの中庭にあるベンチだ。
そう思って足を向けたのだが、そこには先客がいた。賑やかに談笑するグループがベンチを占拠しており、俺が入り込める余地なんて微塵もなかった。
「……最悪だ」
あそこが使えないとなると、次はどこに行けばいい。
お弁当を抱えたまま、行き場を失って廊下を彷徨うのは一番避けたい。焦れば焦るほど、周囲の喧騒が自分を追い詰めるような気がしてくる。
俺は足早に向きを変え、なるべく人通りの少ない方へ進んだ。
辿り着いたのは、校舎の隅にある薄暗い非常階段だった。
ここは人が来ない。薄暗いけれど、絶好の場所だった。
段差をいくつか登り、中ほどの踊り場が見える位置に腰を下ろす。
ようやく一息ついて、お弁当箱を広げる。
彩りも何もない、ただ空腹を満たすためだけに詰められたおかずを、割り箸で無造作に口へ運んだ。
ふと、静まり返った階段の空間に、かすかな違和感が混じった。
コツン、と下の階の方で、硬い靴音が響いた。
誰か来た――。
俺は咄嗟に身を固くし、お弁当を隠すように背中を丸めて気配を殺した。
トントン、トントン。
軽やかな、それでいて迷いのない足音が、壁に反響しながら一歩ずつこちらへ登ってくる。
この階段に用がある人間なんて、俺以外にいないはずだ。足音が近づくにつれ、逃げ場のない焦燥感が胸を突く。
やがて、その足音は俺が座っているすぐ下の段まで来ると、ふっと止まった。
「あ、見ーっけ!」
驚いて視線を落とすと、一段下からひょっこりと顔を出したのは、天瀬さんだった。
「天瀬、さん……。なんで、ここに」
「なんでって」
「……あっちのグループはいいの? みんなと食べてたんでしょ?」
俺は視線を自分のお弁当の茶色いおかずに戻しながら、なるべく素っ気なく聞いた。
さっき廊下で見かけた、あの賑やかな輪。彼女なら今頃、華やかなランチタイムの主役になっているはずだ。
「さっきまで一緒に食べてたよ」
天瀬さんは両手を広げて、屈託なく笑った。
「それで、『ちょっと散歩してくる!』って言って抜け出しちゃった。今日天気いいし!」
「……意味わかんないよ。わざわざこんな場所まで」
「だって高梨くん、中庭にいるのかなと思って探してもどこにもいなかったんだもん」
距離は近いのに、視線の高さが少し違うせいで、彼女を正面から見るのが落ち着かない。
「普通、昼休みは友達と喋ったりするもんでしょ?」
……俺は普通じゃないけど。
「するよ?」
即答だった。
天瀬さんは、当たり前みたいな顔で頷く。
「だから、高梨くんも友達じゃん!」
「……っ」
言葉が、直球すぎる。
胸の奥を軽く叩かれたみたいで、思わず箸を持つ手に力が入った。
――友達。
その二文字が、頭の中で何度も反響する。
「というか、廊下で手を振ったのに目逸らしたでしょ!」
天瀬さんは俺の顔を覗き込みながら、わざとらしく眉を寄せて唇を尖らせた。
「……ただ、照れくさかっただけだよ」
俺は、消え入りそうな小さな声で呟いた。
「……っ、ふふ。そうなんだ!」
彼女は、俺の反応を待っていたかのようにくすくすと笑った。階段の段差に両手をついて、機嫌よさそうに体を揺らしている。
「高梨くん、かわいいね」
「……かわいいのはそっちだろ」
ほとんど聞こえないくらいの声で、呟いた。
「ん? なにか言った?」
首を傾げて、聞き返してくる。
「なにも言ってない……」
「あ、今何か悪口言ったんでしょ!」
「言ってないから!」
「怪しいな〜」
そう言って、彼女は楽しそうに笑う。
「今日もお弁当なんだね!」
そんな俺の動揺なんてお構いなしに、天瀬さんは声の調子を変え、明るく言った。
そして、当然のような顔をして同じ段にすとんと腰を下ろした。
距離が、近い。
肩が触れそうなその距離に、心臓が落ち着く気配はなかった。
天瀬さんはそう言いながら、俺の弁当を上から覗き込んだ。
ふわっと、シャンプーの匂いが近づく。
「お、卵焼き入ってる」
少しだけ迷うように指先を浮かせた。
「……これ、一個もらっていい?」
「一個だけね」
天瀬さんはぱっと表情を明るくして、
「やった! ありがとう」
小さくそう言ってから、指でひとつ摘まみ上げる。
「んー。やっぱり美味しい」
そう言って、満足そうに頷く。
「そうだ。高梨くん、チョコ好き?」
そう言いながら、制服のポケットに手を入れる。
少し探す仕草をしてから、小さな包みを取り出した。
「はい。お返し」
銀色の袋に入った、ひと口サイズのチョコレート。
「いいの?」
「うん。もらったお返しだから」
「ありがとう」
そう言った直後だった。
「陽菜ー?」
はっきりと近い位置から声がした。
天瀬さんは一瞬だけ固まり、それから俺を見る。
「一緒に、隠れよ」
「え?」
有無を言わせない調子でそう言って、俺の袖を掴む。
ぐい、と引かれて、俺たちは階段の踊り場の陰へ身を滑り込ませた。
狭い。思った以上に狭い。
壁と手すりに挟まれた空間に、二人分の体がぎりぎり収まる。
肩どころか、腕も、膝も、近い。
天瀬さんは息を殺すように、俺のすぐ横に身を寄せた。
「……静かにね」
耳元で囁かれて、思わず肩が跳ねる。
「陽菜、本当にどこ行ったんだろうね」
「トイレじゃない?」
「いや、そっち見たけどいなかった」
会話が、すぐ下で交わされる。
天瀬さんは、こっちをちらっと見てから、いたずらっぽく目を細めた。
天瀬さんはちらっと俺を見て、いたずらっぽく目を細めた。
そして、俺の袖を、そっと指先で摘まむ。
――逃げないで。
そんな無言の合図みたいで、心臓が一段とうるさくなる。
数秒。
いや、数十秒。
やけに長く感じた時間のあと、足音が少しずつ遠ざかっていった。
「あっちかな」
「もう一回探してみよっか」
声が消えたのを確認してから、天瀬さんはふうっと小さく息を吐いた。
「セーフ」
上目遣いに、俺の顔を覗き込んでくる。
だが、その安堵の声を聞く余裕はなかった。
「……っ、天瀬、さん」
俺の視線の先。そこから覗く、白くて柔らかな曲線。
普段意識しないようにしている「女の子」という実感が、あまりにもダイレクトな視覚情報として飛び込んできた。
「ん? どしたの、高梨くん。顔、真っ赤だよ?」
俺の動揺など気づきもしない様子で、彼女はさらにぐいっと身を乗り出してくる。
薄い生地越しに、かすかに甘い石鹸のような香り。
「……あの、ボタン。外れてる」
蚊の鳴くような声でそう言うと、天瀬さんは一瞬きょとんとして、それから自分の胸元へ視線を落とした。
「あ……」
ボッと、音がしそうなほどの速さで彼女の顔が赤に染まった。
天瀬さんは慌てて襟元を両手で押さえながら、スプリングが仕込まれていたみたいに勢いよく体を起こした。
「ご、ごめん! 変なとこ、見てなかった?」
「見て、ない……ことは、ないけど」
正直に答えると、彼女は「高梨くんのばか……」と恥ずかしそうに顔を伏せた。
俺はどう返していいか分からず、ただ視線を泳がせるしかなかった。
このまま黙っていたら、意識しすぎて頭がどうにかなりそうだ。
「でもさ……」
俺は、あえて平静を装った声を出した。
「なんで隠れたの? 友達が探しに来てるなら、行けばよかったのに」
理屈を並べて、この高鳴る鼓動を誤魔化す。すると、天瀬さんがふっと顔を上げた。
「こういうの楽しいでしょ?」
少しだけ赤みを残した顔で、彼女はいたずらっぽく笑った。その屈託のなさに、毒気を抜かれる。
「なんか、天瀬さんって子どもみたいだね」
一瞬だけ、間が空く。
「からかってるでしょー!」
次の瞬間、むっとした顔で言い返してきた。
「いいもん! べつに! 子どもだもん!」
開き直って胸を張るその様子が、あまりにも真っ直ぐで。
気まずさを必死に振り払おうとしているようにも見えて、俺はほんの一瞬、自覚なしに口元を緩めた。
「あ、今、笑った!」
即座に、逃さず指摘される。
「……笑ってない」
「うそ。ちょっとだけ、こう……」
天瀬さんが自分の頬を指でつついて、にやっとした表情を作る。
「こんな顔してた」
その必死さが、もうどうしようもなく可笑しくて。
「……っ、はは」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
自分でも驚くほど自然に、声が出ていた。
「笑いすぎ〜」
「だって……天瀬さん、こんな顔してたよ」
「あははっ、なにその顔!」
天瀬さんは一拍遅れて噴き出した。
「そんな顔してないし!」
「してたって」
「してない!」
二人で言い合って、顔を見合わせて――
次の瞬間、どちらからともなく笑いがこぼれた。
理由なんて、もうどうでもよくて。
ただ可笑しくて、楽しくて。
さっきまでの緊張も、気まずさも、全部どこかへ消えて。
二人だけのこの場所が、少しだけ特別に感じられた。
笑い声を抑えながら、俺たちはしばらく、馬鹿みたいに笑い続けていた。




