3話 バイト先で
午後四時。制服のまま街の本屋へ向かう。
店内は、午後の静けさに包まれ、本の並ぶ棚の間を歩くと、自然と落ち着いた気分になる。
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開くたび、軽く声をかける。
棚の間を歩きながら、手元の本を整理する。新刊の平積みを整え、表紙を軽く揃えて、次の棚へ。
平日のこの時間は来客も少なく、静かな店内は作業に集中するのにちょうどいい。
ふと、店の奥の棚の隙間にある文庫本に目をやり、さっと手を伸ばす。この時間の繰り返しが、なんだか心地いい。
入口の方から小さな足音。振り返ると、並んだ本棚をじっと見上げる小学生が一人。
「何か探してるの?」
柔らかく声をかけると、子供は少しほっとしたように微笑んだ。
「えっと……このシリーズの最新刊が欲しいんです」
棚を指差し、丁寧に案内する。受け取ったときの「ありがとう」に、自然と笑みがこぼれた。
静かに本の整理をしていると、入口の自動ドアが開く音がした。
――あ、誰か来た。
振り返ると、目に飛び込んできたのは見覚えのある制服姿。
……天瀬さん!?
思わず声が出そうになる。やばい、見つかる――!
慌てて、近くの文庫棚の隙間に身を滑り込ませる。
背中が棚に押し付けられ、肩越しに天瀬の姿をちらりと確認する。
天瀬はにこにこと店内を見回している。
本を手に取り、ページをめくり、楽しそうに声を漏らす。
「ふーん、こういう本もあるんだ」
高梨は息を潜める。視線だけで、天瀬の動きを追う。
棚の端にかろうじて身を隠しながら、手には整理中の文庫本を持ち、顔の前にかざす。
本の背表紙で顔を半分隠すと、少しは安心した気がした。
しかし、天瀬の動きが近づいてくる。
棚の影から、指先が本の背に触れる様子が見える。
高梨の心臓がドクンと跳ねる。
とっさに、もう一冊の文庫本を手に取り、前に突き出して完全に顔を隠す。
天瀬は棚の端で立ち止まり、手を伸ばして本を手に取る。
その姿が近すぎて、高梨は本の裏で小さく身を縮めた。
呼吸が少し速くなる。ほんの数歩の距離なのに、全身が緊張で固まる。
その時、店長の声が響いた。
「高梨くん、大丈夫?」
思わず小さく声を漏らす。
「は、はい……大丈夫です」
返答は精一杯の小声だった。店長は納得したように頷き、また本棚の整理に戻る。
その間に、高梨はすぐ隣の棚越しに天瀬の姿を確認する。
棚の隙間から、じっと天瀬の様子をうかがっていると、彼女がふと立ち止まり、周囲を見回した。
手にした本を抱え、視線が少しだけこちらに向かう。
「……あれ?」
小さく首をかしげる声。
高梨の胸が、思わず早鐘のように跳ねる。
天瀬は棚の端に近づき、視線を棚の裏側へ向けた。
その瞬間、背筋が凍った。――やばい、見つかる。
「……高梨くん?」
名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がる。
俺は思わず本で顔を隠し、息を止める。
けれど、天瀬はすぐににっこり笑った。
「えっ、ほんとに高梨くんだ!」
声が近くて、背筋がひゅっとなる。
肩まで本を上げて、必死に顔を隠す。
ばれてしまった。
天瀬はにこっと笑い、棚の端に立ったまま、興味深そうに見つめる。
「ここでバイトしてるの?」
小さな問いかけ。驚きと軽い好奇心だけで、怒ったり疑問に思ったりはしていない。
高梨は小さく頷いた。
「……うん」
「高梨くん、ここで働いてるんだ。びっくりしちゃった」
「えっと、天瀬さんは、本を探しに?」
天瀬は手にした本を軽く掲げ、にっこりと笑った。
「うん、何か面白い本ないかなーって。こうやって棚を見て回るのも楽しいね」
天瀬の明るい声が、静かな店内にふわりと響く。
「そうだ。おすすめの本、ない?」
「えっと……おすすめ、か……」
突然振られて、高梨は視線を泳がせながら棚へ向き直る。
「これ……なんかどう?」
そう言って手に取ったのは、最近入荷したばかりの文庫本だった。
表紙は派手じゃない。でも、ページをめくるほどに、じわじわと世界に引き込まれていくタイプの一冊。
ぎこちなく口を開いた瞬間、心の奥から自然に言葉があふれ出した。
「これ……すごく面白いんだ。登場人物の一人一人が、すごく生き生きしてて、感情がちゃんと伝わってくるんだよ。状況とか細かい描写も丁寧で、まるで自分がその場にいるみたいに感じられるんだ」
話しながら、高梨の声は少し早くなる。手が本に触れるたびに、思わず強めに握り込んでしまう。
「特に主人公がさ……最初は弱くて臆病なんだけど、少しずつ成長していくんだ。その過程が、読んでて応援したくなるっていうか……うーん、説明が下手だけど、とにかく面白いんだ!」
天瀬は目を丸くして、真剣に耳を傾けてくれる。
その視線に、高梨の言葉はさらに熱を帯びる。
「あと、この世界観もすごくてさ、日常の些細な出来事も、読んでると全部意味があるように感じられるんだ。キャラクター同士の関係とか、伏線の回収とか、もう全部が巧妙で……あ、ごめん。つい」
勢いで熱くなってしまった。
天瀬はくすっと笑って首をかしげ、でも目は輝いたまま。
「わあ……なんだか、すごく面白そう! 高梨くんがそこまで熱く語るなら、絶対読んでみたくなるよ」
隣で笑顔を向けられただけで、心臓が跳ねる。
「じゃあ、これください!」
天瀬は満面の笑みで本を差し出す。
高梨は、レジのバーコードをスキャンしながら、少し手が震えているのに気づいた。
「は、はい……どうぞ。袋に入れますね」
本を袋に入れて手渡した、その瞬間。
――ふれた。
ほんの一瞬、指先が重なっただけ。
それだけなのに、胸の奥がざわっと波打つ。
「ありがとう、高梨くん!」
天瀬は本を抱え、にこっと笑う。
その笑顔に、高梨はつい顔をそむけ、手元のレジ作業に集中するふりをした。
「あのさ」
呼びかけられて、心臓が跳ねる。
天瀬は少し首をかしげ、柔らかい声で続けた。
「ねえ、高梨くんって、普段からこういう本読むの?」
「う、うん……まあ、たまにね」
なんとか平静を装って答えると、天瀬は満足そうに頷いた。
「じゃあ、今度またおすすめの本教えてね!」
元気に手を振る天瀬を見送ると、高梨はレジの奥で、こっそり深呼吸をした。
理由はわからない。ただ、胸の奥が少しくすぐったい。
誰かにおすすめした本を、ああして素直に手に取ってもらったのは、初めてだった。それだけのことのはずなのに。
店内放送の控えめな音楽が流れ、時計の針が静かに進む。
いつもの空間。
なのに、今日は少しだけ、違って見えた。
それから数十分。
店内には、またぽつぽつと客が入り始めていた。
「いらっしゃいませ」
本を整え、レジを打ち、必要なら棚の案内をする。
そう思った矢先、文庫棚の前で足が止まった。
無意識に、さっき天瀬さんが立っていた場所を見てしまう。
「……何やってんだ」
高梨は小さく首を振り、棚から一冊抜き取って向きを整えた。
仕事中にぼんやりするな、と自分に言い聞かせる。
けれど。
――今度またおすすめの本、教えてね。
あの言葉が、思い出したように頭をよぎる。
社交辞令かもしれない。
その場の流れで言っただけかもしれない。
それでも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ。
次に来たとき、何を勧めようか――
そんなことを考えている自分に気づいて、少しだけ戸惑う。
「……ほんと、調子狂うな」
小さく呟き、レジの横に積まれた新刊を手に取る。
表紙を見て、ふとひらめく。
――これ、好きそうだな。
理由はない。
ただ、なんとなく。
夕方の光が、ガラス越しに店内へ差し込む。
時間は、静かに、確実に過ぎていく。
レジ横の時計を見る。
そろそろ、上がる時間だ。
「高梨くん、今日はここまででいいよ」
店長の声に、はっとする。
「はい」
エプロンを外し、丁寧に畳む。
制服の袖を整えると、不思議と現実に戻された気がした。
エプロンを外し、裏口から店を出る。
夕方の空気はひんやりしていて、仕事終わりの頭を少し冷ましてくれる。
何気なく店の前に目をやった、その時だった。
――あ。
建物の横にある小さなベンチ。
そこに、見覚えのある制服姿が腰掛けている。
天瀬だった。
本屋で買ったばかりの本を膝の上に置き、ページをぱらぱらとめくっている。
一瞬、引き返そうかと思った。
気づかれない距離じゃないし、向こうも多分――
その考えが終わる前に、天瀬が顔を上げた。
「あ」
目が合う。
「高梨くん」
にこっと、軽い笑顔。
「もう終わり?」
「うん。今日はここまで」
「そっか」
天瀬は本を閉じ、ベンチの端を軽く叩いた。
「さっそく読み始めたんだけど」
高梨は一瞬言葉に詰まり、視線を本に落とした。
「もう、読んでるんだ」
「まだ最初だけどね。主人公、思ってたより不器用でさ」
楽しそうに頷き、ページを指で軽く押さえる。
「高梨くんの言ってた通りかも」
その一言で、胸の奥が小さく跳ねた。
「……そ、そう」
天瀬はくすっと笑う。
「説明、熱かったもんね」
からかうような声なのに、不思議と嫌じゃない。
天瀬さんはそのまま、膝の上の本をバッグへしまうと、ひょいとベンチから立ち上がった。
「ねえ、高梨くん。途中まで一緒に歩かない?」
「え……あ、うん」
友達のいない僕にとって、「誰かと一緒に帰る」というイベントの難易度は、ラスボス戦に匹敵する。ましてや相手は天瀬さんだ。
並んで歩き出すと、オレンジ色に染まった二人の影が、アスファルトの上に長く伸びた。
「さっきの主人公さ」
前を見据えたまま、天瀬さんが不意に口を開く。
「自分の好きなことについて話す時だけ、急に早口になるでしょ? あれ、ちょっとだけ高梨くんに似てるなって思った」
「……っ。それは、その……オタク特有のやつだから」
「ふふ、いいと思うよ。一生懸命な感じがして」
彼女は僕の反応を楽しむように、一歩、また一歩と、歩幅を合わせてくる。
「……天瀬さんって、なんで俺なんかに構うの?」
ずっと聞きたかった問いが、沈む夕日に背中を押されるようにしてこぼれ落ちた。
学校で目立つ彼女と、隅っこにいる僕。共通点なんて、目玉焼きの好みくらいしかないはずなのに。
天瀬さんは立ち止まり、影の中で僕をじっと見つめた。
「なんで、かな」
彼女は自分のバッグのストラップをぎゅっと握り、少しだけ首をかしげる。
「みんなと騒ぐのも楽しいけど、私は高梨くんみたいな人、面白いなって思うんだよね」
夕日に照らされた彼女の横顔は、いつもの小悪魔的な笑顔とは少し違って、どこか静かだった。
「だから、かな」
気の利いた返しなんて、一文字も出てこなかった。
しばらく無言のまま歩いていると、住宅街へと続く細い路地の角が見えてきた。曲がるべき、いつもの分岐点だ。
「あ……俺、ここだから」
足を止めると、天瀬さんも一緒に立ち止まった。
「そっか。私はあっち」
そこで本当に「さよなら」なのだと気づいた瞬間、さっきまでの気恥ずかしさが、妙な物足りなさに変わった。
「……あの、本、面白くなかったら無理に読まなくていいから」
予防線を張るような僕の言葉に、天瀬さんは悪戯っぽく笑って、バッグを叩いた。
彼女はバッグの肩紐をぎゅっと掴み、わざとらしく僕をじーっと見つめてくる。
「な、なに」
「あはは、心配しすぎ。私が読みたいから読むんだよー!」
少し幼いような、それでいて拒絶を許さないような明るい声。
彼女はそのまま、軽やかなステップで遠ざかった。
一度も振り返ることなく、弾むような足取りで角を曲がっていく。その制服のスカートが夕風にふわりとなびいて、彼女がいた場所にはシャンプーの甘い残り香だけが微かに漂っていた。
「ただいま」
自分の部屋に入り、カバンを放り出してベッドに倒れ込む。
ベッドに沈み込んだまま、しばらく天井を見つめていたが、いつまでもこうしているわけにもいかない。
気持ちを切り替えるように起き上がり、部屋を出る。
リビングからは、テレビの音と、台所で何かを温める音が聞こえてきた。
「おかえり。ごはん、先? それともお風呂?」
エプロン姿の母が、いつもの調子で聞いてくる。
「……風呂、先で」
「はーい」
脱衣所で服を脱ぎ、浴室の扉を開ける。
湯気がもわっと広がり、鏡が一瞬で白く曇った。
湯船に身を沈めると、肩から力が抜ける。
じんわりと温かさが広がっていくはずなのに、頭の中は妙に落ち着かない。
湯を手ですくって顔にかける。
けれど、熱は消えても、思考までは流れてくれなかった。
風呂から上がると、テーブルにはもう夕飯が並んでいた。
湯気の立つ味噌汁と、焼き魚。見慣れた、いつもの献立。
「いただきます」
箸を取って口に運ぶ。
「今日、なんか静かじゃない?」
向かいから、結衣がにやにやした顔で覗き込んでくる。
「そうか? 別に普通だけど」
「ふーん」
意味ありげに頷きながら、楽しそうに箸を進める結衣。
その視線を正面から受け止めるのは落ち着かなくて、味噌汁に視線を落とした。
食事を終えて自室に戻ると、昼間よりも静かな空気が部屋を満たしていた。
ベッドに横になり、天井を見上げると、別れ際に彼女が言った言葉が、静かな部屋の中で何度もリフレインした。
……だめだ、落ち着かない。
「うわ。お兄ちゃん、何その顔」
半開きのドアから、妹の結衣が顔を覗かせていた。片手に持ったスマホをいじりながら、信じられないものを見るような目をしている。
「何だよ、入るならノックしろって」
「したし。っていうか、お兄ちゃん。なんで一人でニヤニヤしてんの?」
「してない。ただ、本を読んでただけ」
「なに? バイト先でいいことあった?」
「……別に」
「へぇ〜?」
結衣は部屋に入ってくると、机の上に置いてあったメモをひょいとつまみ上げた。
――『どこまで読んだ?』
――『あのシーンの感想、どうだった?』
――『(もし読んでなかったら)……だよね、忙しいもんね、と笑う』
結衣は無言でそのメモを顔に近づけ、一文字一文字を噛み締めるようにじっくりと眺める。部屋の中に、紙がかすかに揺れる音だけが響く。
やがて、彼女の肩がプルプルと震え出した。
「……ぷっ、あははは! 何これ! お兄ちゃん、明日のトークスクリプト? 」
「っ……!」
顔から火が出る、とはまさにこのことだ。
あまりの羞恥心に、指先まで熱くなるのがわかる。
「返せ! それは……ただの雑談のネタだ」
「雑談? 友達ゼロのお兄ちゃんが? もしかして、友達できたの?」
心臓がドクンと跳ねた。
無言になった俺を見て、結衣は何か察したように目を細め、にやにやとした笑みを浮かべる。
「図星なんだ。お母さんに言っちゃおうかな、お兄ちゃんに春が来たよって」
「やめろ! そんなんじゃない」
「明日なんて声かけるか今からシミュレーションして、夜更かししないでよね。明日、顔色悪いと嫌われちゃうよ?」
「ほっとけ……」
「はいはい」
結衣はケラケラと笑いながら、部屋を出て行った。
嵐が去った後のような静寂が戻ってきた部屋で、脱力したままベッドに沈み込んだ。
「……友達、か」
どう接するのが正解かなんて分からない。でも、考えたところで答えが出るわけでもない。
お風呂から上がり、髪を乾かして部屋に戻る。
いつもなら夜遅くまで読書に没頭するけれど、今日は早めに布団へ潜り込んだ。
「……寝よ」
電気を消し、暗闇の中で天井を見つめる。
いつもより少しだけ、明日が来るのが億劫じゃない気がした。
気づけば、深い眠りが俺をさらっていった。




