13話 静けさ
バイト中、窓の外では夕方から雨がぱらつき始めていた。
そう思いながら接客をこなし、バイトを終えて店を出る。
だが、その頃には先ほどまでの雨が止んでいた。
空はすでに夕焼けの色を抜け、群青に沈みかけている。住宅街へ入ると、人通りは一気に少なくなり、軒先の灯りと街灯が、ぽつぽつと道を照らしていた。
バイト終わりのこの時間帯は、頭が妙に静かになる。
家へ向かういつもの道を少し外れたところに、小さな公園がある。
その公園の隅に置かれたベンチに、見覚えのある後ろ姿があった。
漆黒のストールは羽織っているものの、肩からずり落ちかけていて、いつものような存在感はない。
足をぶらぶらと揺らし、地面をぼんやりと見つめている。
夜ノ森零だ。
あの夜ノ森が、あんなふうに静かに座っているのは、正直違和感がある。
俺は、自然と公園の中へ足を踏み入れていた。
髪はすっかり濡れて頬に張りつき、ストールは水を吸って重そうに垂れ下がっている。
眼帯の端から、雫が一滴、ぽたりと落ちた。
「……夜ノ森? こんなところで何してるの」
声をかけた瞬間、彼女の肩がびくりと跳ねた。
弾かれたように顔を上げ、俺を見る。
「……はぅっ!」
一瞬、完全に固まったあと、慌ててストールを正し、眼帯の位置を直す。
「ふ、不眠の守護者……。この黄昏時に姿を現すとは、相変わらず奇妙な行動を取るわね」
いつもの口調。
けれど、声は小さく、張りがない。
「バイト帰り。そっちは?」
「……時空の狭間で、少しだけ思索に耽っていただけよ」
そう言いながら、彼女は俺と視線を合わせようとしない。
ベンチの足元には、飲みかけの紙パックのジュースが置かれていた。
「今日は、世界は平和そうだな」
「……失礼ね。世界は常に私の監視下にあるわ」
そう言い切る声も、やっぱり弱い。
俺は一度、夜ノ森の姿を上から下まで見て、それから短く息を吐いた。
「……とりあえず、俺の家に来い。ここからすぐ近くだ」
俺は震える彼女の肩を支えるようにして、無理やり立ち上がらせた。
「え……貴方の、拠点(隠れ家)に……? そんな、禁忌に触れるようなこと……っ」
「いいから。このままじゃ本当に風邪引くぞ」
夜ノ森は、何か言い返そうとして、結局何も言えず、小さくうなずいた。
夜ノ森は、俺の半歩後ろを歩いていた。
街灯の光が、濡れたアスファルトに滲んで反射する。
さっきまで降っていた雨の名残が、夜の空気をひんやりとさせていた。
横目で様子を窺うと、夜ノ森はストールをぎゅっと掴んだまま、前だけを見つめていた。
濡れた前髪の隙間から覗く唇は、きゅっと結ばれている。
「……なあ」
声をかけようとして、やめた。
今は、無理に何かを聞く時間じゃない気がした。
数分もしないうちに、俺の家が見えてくる。
「ここだ」
玄関を開けると、乾いた空気が流れ出す。
その瞬間、夜ノ森の肩が小さく震えた。
「お、お邪魔……するわ」
玄関を開けた瞬間、奥の部屋からパタパタと足音が響いてくる。
「おかえりー。お兄ちゃん、って!?」
そこに立っていたのは、部屋着姿でアイスを片手に持った妹の結衣だった。
「……何、お兄ちゃん。またナンパ?」
「バカ言え、違う。道端でずぶ濡れになっていたから保護しただけだ。……ったく、人聞きの悪いこと言うな」
「はいはい、そういうことにしておいてあげる。でもその子、唇紫だよ? ナンパの言い訳考えてる暇あったら、早くお風呂貸してあげなよ」
結衣は呆れたように溜息をつくと、夜ノ森の腕を優しく取った。
「ほら、お姉さん。こっち。お風呂沸いてるから。服も私の貸してあげる。……お兄ちゃんのダサいジャージよりはマシでしょ?」
そう言って背中を押す結衣に連れられ、夜ノ森は脱衣所へと入っていった。
扉が閉まる直前、彼女がボソッと小さな声で呟くのが聞こえた。
「……ありがとう」
「……ねえ、お兄ちゃん」
結衣がアイスを一口齧り、ジト目で俺を見てくる。
「あのお姉さん……腕を掴んだ時、びっくりするくらい震えてたよ。何かあったの?」
「わかんない。公園のベンチで、雨上がりに一人で座ってたんだ」
「ふーん。まあ、あんなかわいい人、放っておけないのはわかるけどさ」
結衣は鼻を鳴らすと、「私の着替え、適当に見繕ってくるから。お兄ちゃんは温かい飲み物でも淹れてあげなよ」と、二階の自分の部屋へ駆け上がっていった。
俺は一人リビングに入り、キッチンに立った。
換気扇の回る音だけが響く中、お湯を沸かしながら、先ほどの彼女の様子を思い出す。
部室でお守りを届けた時は、あんなに自信満々だったのに。今さっき見た彼女は、あんなに小さく、今にも消えてしまいそうだった。
しばらくして、浴室からシャワーの音が止まった。
キッチンからリビングへ、ココアの甘い香りが漂い始める。
やがて、パタパタという結衣の足音と一緒に、浴室の扉が開く音が聞こえた。
「ほら、お姉さん、こっち」
結衣に優しく背中を押されるようにして、夜ノ森がリビングへ足を踏み入れた。
そこに立っていた彼女を見て、俺は思わず言葉を失った。
結衣から借りた水色のゆるいスウェットは、彼女には少しサイズが大きいようで、袖から指先が少しだけ覗いている。タオルでまとめられた濡れ髪から覗く素顔は、昼間の「観測者」としての険しさが消え、どこか柔らかく、そして綺麗だった。
「……結衣さん、着替え……ありがとう」
夜ノ森は俯きながら、はにかむように小さくお礼を言った。その声は、昼間の尊大な話し方とは別人のように柔らかくて、どこか甘い響きが混じっている。頬をほんのりと桃色に染めて、もじもじとスウェットの裾を弄っていた。
「いーえ。あ、私、明日小テストあるの忘れてた! 勉強するから、あとはゆっくりしてってね」
結衣はニコッと笑うと、トントンと軽やかな足音を立てて階段を上っていった。
「座って。ココア淹れたから」
俺がソファを指さすと、夜ノ森は幽霊のように力なく、俺から一番遠い端っこに腰を下ろした。
俺と目が合うと、一気に耳の先まで真っ赤になり、顔を隠すように首をすくめてスウェットの襟に顔を埋めた。
「み、見ないで……。今の私、……変、だから」
「なにも変じゃない。それ冷める前に飲みなよ。あったまるから」
「うぅ……」
彼女はマグカップを持ったまま、ちんまりと丸くなる。
昼間のあの自信満々な姿からは想像もできないほど、今の彼女はひどく恥ずかしがり屋な、一人の女の子だった。
夜ノ森はおずおずとココアを一口啜ると、熱かったのか「ふぇ……」と小さく声を漏らして、舌先を少しだけ出した。
その仕草が、あまりにも無防備で。
「…………」
会話が途切れた。
普段、友達とも必要最低限の言葉しか交わさない俺にとって、この沈黙はなかなか胃にくる。
何か、何か話題を……。
俺は必死に脳細胞を回転させ、絞り出すように口を開いた。
「あー、その。学校、どう?」
自分でも驚くほど、中身のない質問だった。
案の定、夜ノ森は「え?」と小さく首を傾げ、目を丸くして俺を見た。
「学校……って?」
「その、慣れたか、とか。……今日、演劇部の部室にいただろ。部活、楽しい? なんか元気ないみたいだからさ」
頑張って話を繋げようとしたが、夜ノ森の表情が、その言葉を聞いた瞬間にふっと曇った。
彼女は膝を抱えるようにして、ソファの上でさらに体を小さくした。
「……別に。普通だよ。……ただ、ちょっと疲れちゃっただけ」
夜ノ森は視線を泳がせ、マグカップの縁を指でなぞった。
本当は何か言いたいことがありそうだったが、それを口にするのは彼女のプライドが許さないのか、それとも俺をそこまで信用していないからか。
「……そっか」
俺はそれ以上深く踏み込むことができず、気の利いたフォローも思い浮かばないまま、自分もココアを口にした。
「……あの」
静寂を破ったのは、夜ノ森だった。
彼女はココアを飲み干すと、空になったマグカップをテーブルに置き、スウェットの袖をぎゅっと握りしめた。
「そろそろ、行くね。あんまり遅いと親が心配するから」
その時、二階からドタドタと足音がして、結衣が顔を出した。
「あ、お姉さん帰っちゃうの? お兄ちゃん! ちゃんと家まで送ってあげなよ? 女の子をこんな時間に一人で帰すとか、万死に値するからね!」
「……わかってるよ。言われなくてもそのつもり」
結衣の勢いに気圧されながらも、俺は立ち上がった。夜ノ森は「えっ、あ、でも……」と戸惑ったように俺と結衣を交互に見ている。
「ほら、お姉さん。うちのお兄ちゃん、こういう時くらいしか役に立たないから、遠慮なく使っていいんだよ。ね?」
結衣が茶目っ気たっぷりに笑うと、夜ノ森は緊張が解けたのか、小さく「ふふっ」と吹き出した。
「あ、着替えは別に急がないから、いつでも学校でお兄さんに返してくれればいいからね!」
「……うん。ありがと、結衣ちゃん。また……ね」
外に出ると、雨上がりの夜気がひんやりと頬を撫でた。街灯の光が、濡れたアスファルトをオレンジ色に反射させている。
俺と夜ノ森は、どちらからともなく並んで歩き出した。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った住宅街。時折、遠くで走る車の音だけが聞こえてくる。
「家、どっち?」
俺が尋ねると、彼女はふっと我に返ったように、前方の暗がりを指差した。
「……あっち。公園の、先にあるマンション」
「そうか。……行こう」
並んで歩く俺たちの影が、街灯を通り過ぎるたびに伸びたり縮んだりする。
ふと、目指すマンションの明かりが街路樹の隙間から見えてきた。
自分のテリトリーに近づいた安心感からか、夜ノ森の歩幅が少しずつ大きくなっていく。すると不意に、彼女はストールをバサァッと翻して、俺の前へと躍り出た。
「……フッ、やはりこの地の霊脈は私に合っているようね。失われていた魔力が急速に回復していくのを感じるわ!」
さっきまでの消え入りそうな声はどこへやら。
彼女はぐいっと胸を張り、自信満々に俺を振り返った。
街灯の下で不敵な笑みを浮かべるその姿は、学校でのあの「夜ノ森零」そのものだ。
「……急に元気になったな」
「当然よ! 闇夜こそが私の主戦場。貴方の拠点での休息も、まあ……悪くはなかったわね。特別に感謝の印として、我が魔力の加護を授けてあげてもいいわよ?」
そう言って彼女は、スウェットの長い袖を口元に当てて「オーッホッホ」と高笑いしてみせた。
「……はいはい。じゃあ、もう大丈夫そうだな」
「ええ、ここからは私の聖域。守護者の随伴はここまでで結構よ。……今日の貸しは、いつか星の巡りが交差する時にでも返してあげるわ」
彼女はそのまま、軽やかな足取りでエントランスの中へと消えていった。
けれど、別れ際に見せたあの不自然なほど高いテンションが、かえって俺の胸にザラついた違和感を残していた。




