11話 女の子の部屋
そっとドアを開けると、そこには女の子の部屋らしい、ほんのりと甘い石鹸のような香りが漂っていた。
「……お邪魔します」
白を基調とした家具に、淡いピンクのフリルがあしらわれたクッション。棚にはお揃いのリボンをつけたウサギのぬいぐるみがちょこんと並び、壁にはパステルカラーの雑貨が飾られている。
まるで彼女の秘密の深層心理に足を踏み入れてしまったような、猛烈な気恥ずかしさが込み上げてきた。
見ちゃいけない気がするのに、どうしても意識してしまう。俺は完全に挙動不審になり、あちこちへ視線を泳がせてしまった。
「……高梨くん。そんなにキョロキョロしないで……恥ずかしいから」
ベッドの中から、天瀬さんが布団を鼻先まで引き上げた状態で、上目遣いに俺を見た。
熱のせいで潤んだ瞳と、少しだけ乱れた髪。無防備な彼女がそこにいた。
俺がトレイを置くと、天瀬さんはゆっくりと上半身を起こそうとした。けれど、体が思うように動かないのか、途中で「う……」と小さく声を漏らして動きが止まる。
「大丈夫? 無理しないで」
俺は慌てて手を貸そうとしたが、そこでもまた、どこに触れていいか分からず手が宙を彷徨う。
「なんか、力が入らなくて」
なんとか起き上がった彼女は、重たそうな瞼を震わせながら、お粥をじっと見つめた。
「ありがと。すごく、いい匂い」
彼女はお粥の蓮華を手に取ろうとしたが、指先が微かに震えていて、なかなかうまく掴めない。
カチャ、と小さな音がして、蓮華が小鉢の縁に力なく当たった。
じっとお粥を見つめていたが、やがて真っ直ぐに俺の目を見て、淡々とした、けれど少し甘えるようなトーンでこう言った。
「……高梨くん。私、今力が入らなくて。食べさせて」
「え……?」
思わず聞き返すと、彼女は少しだけ首を傾け、当然のことのように俺を見つめ返してくる。
「手が震えて、うまく持てないの。だめかな?」
その無防備な視線に、俺の顔は耳の付け根まで真っ赤に染まっていくのがわかった。
「わかった。……わかったから、そんなに見ないで」
俺は動揺を隠そうと必死にぶっきらぼうな声を出し、震える手で器と蓮華を手に取った。
天瀬さんはそっと口を開けて俺が蓮華を差し出すのを待っていた。
うわ、もう待ってる……。
そのあまりに無防備な姿に、俺の頭は真っ白になった。
俺は真っ赤な顔のまま、震える手で彼女の口元へ蓮華を差し入れた。
「……ん」
天瀬さんはお粥を一口飲み込むと、満足そうに微笑んだ。
「おいしい……。すごく、優しい味」
「……なら、よかった」
真っ直ぐに自分を頼ってくる彼女のペースに、俺はただただ翻弄されながら、次の一匙をゆっくりと運んだ。
「……高梨くん」
天瀬さんは一度お粥を飲み込むと、ふわりと柔らかな表情を見せた。
「なに? 無理して全部食べなくてもいいんだよ」
「ううん、そうじゃなくて。お粥食べたら、少し元気になったかも」
そう言って彼女が向けた笑みは、さっきまでの危うさが消えて、少しだけいつもの彼女らしい凛とした強さが混じっていた。
「……そっか。なら、作った甲斐があったよ」
俺は心底ホッとして、思わず緩みそうになる口元を必死に引き締めた。すると、天瀬さんはトレイに乗ったもう一つの器、コーンポタージュの方をじっと見つめる。
「……ねえ。次は、そっちのコーンポタージュも飲みたいな」
今度は自分で飲もうとするように、ベッドの上で少し姿勢を正した。
俺がマグカップの取っ手を彼女の方に向けて差し出すと、彼女は自分の手をそっと伸ばした。まだ少し指先が震えていたけれど、今度は自分の力でしっかりとカップを受け止める。
「……いただきます」
天瀬さんはカップの縁に唇を寄せ、ふー、ふー、と小さく息を吹きかけ、ゆっくりとマグカップを口元へ運んだ。
「……あまくて、おいしい」
彼女はもう一度スープを一口啜ると、満足そうにふぅと息を吐いた。少しずつ生気が戻ってきた彼女の横顔を、俺はなんとなく手持ち無沙汰な気持ちで眺める。
お粥の器も、マグカップも、気づけば空になっていた。
「全部、食べられたね」
俺がそう言って空になった器をトレイにまとめようとすると、天瀬さんはふっ、と安らかな吐息を漏らして、背中をヘッドボードに預けた。
「うん。お腹いっぱい。ごちそうさまでした」
そう言って、彼女は少しだけはにかんだ。
「じゃあこれ、片付けてくる。薬飲んで、しっかり寝て」
トレイを持ち上げ、俺は逃げるように立ち上がった。これ以上この部屋の、甘くて柔らかな空気に当てられていたら、自分の心臓がどうにかなってしまいそうだったから。
「あ、待って。高梨くん」
部屋を出ようとした俺の背中に、彼女の澄んだ声が届く。
「なに?」
振り返ると、天瀬さんは布団の中から小さく手を振っていた。
「今日は本当に……ありがとう」
「うん。無理はしないでね」
俺が優しくそう告げると、パタンと静かにドアを閉めた。
「……うわっ!?」
すぐ目の前に、七海ちゃんが立っていた。驚きで少しのけぞる俺に対し、彼女はにっこりと、花の咲くような満面の笑みを浮かべていた。
「ありがとうございました、お兄さん。……だいぶ長かったですね?」
彼女は背中に手を組み、上目遣いに俺の顔を覗き込んでくる。
「お兄さん。顔が真っ赤ですけど、どうしたんですかぁ?」
その言葉に、俺の思考は一瞬でフリーズした。
七海ちゃんはにっこりと笑ったまま、まるで道端で見つけた珍しい生き物を観察するかのような純粋な瞳で俺を見上げている。
……待て。わざと言ってるのか……?
彼女の表情からは、悪意のようなものは一切読み取れない。本当に、ただ目の前の男の顔が赤いのが不思議でたまらない、といった風な無垢な笑顔。
「これは、部屋が暑くてね……」
「部屋、そんなに暖房強かったかなぁ?」
七海ちゃんはさらに首を傾げ、人畜無害そうな笑顔を深める。その「にっこり」が、今の俺にはどんな追求よりも恐ろしく感じられた。
天然なのか計算なのか、その境界線がまったく見えない彼女のペースにこれ以上付き合っていたら、心臓がいくつあっても足りない。
キッチンに辿り着き、シンクへトレイを下ろす。カチャリ、と食器が触れ合う音が、やけに静かな家の中に響いた。
俺は慣れない手つきで蛇口をひねり、まずは器に残った汚れを水で流し始める。
「あ、いいですよ。片付けは私がやりますから、お兄さんは座っててください」
背後からトコトコと歩み寄ってきた七海ちゃんが、俺の横に並ぶ。
「じゃあ、俺がスポンジで洗うから、七海ちゃんがそれをすすいでくれる?」
「わっかりましたぁ! それじゃあ私、すすぎ担当ですね!」
七海ちゃんは弾むような声で快諾すると、さっそく俺の隣で袖をまくり上げ始めた。
「よし! お兄さん、どんどんきてください!」
キュッ、キュッ、と食器が磨かれる音と、ザーッという水の音が重なる。
七海ちゃんはご機嫌な様子で、ふふん、ふふふん、と小さな鼻歌を口ずさみながら、すすぎをこなしていく。
「ねえ、お兄さん」
ふいに、彼女が鼻歌を止めて、水の音に紛れるような柔らかな声を出した。
「陽菜ねぇ、ここに引っ越してくる前までは、家では元気がない時も結構あったんですよ。見てて心配になるくらい……」
「そうだったんだ」
普段の彼女からは想像もつかない話に、俺の手が止まる。
「でも、最近は違うんです。陽菜ねぇ、なんだか最近元気だねってお母さんと話してたんです。家でも楽しそうにしてることが増えたし……」
七海ちゃんは、俺が差し出した泡だらけの器を丁寧な手つきで受け取り、流水にさらす。
「陽菜ねぇをそんなふうに、ここに来てから変えてくれたのは、きっと……」
そこで一度言葉を切ると、彼女はまた、あの逃げ場をなくすようなにっこりとした笑顔で俺を見つめた。
「お兄さんのおかげもあるんじゃないかなぁって、私は思ってるんです。……ね、高梨くん?」
確信犯なのか、それとも本当に純粋にそう信じているのか。その境界線は、やはり水音の向こう側に溶けていて見えない。
「別に俺は何もしてないから」
「あ、また顔が赤くなってますよ? お兄さん、やっぱり熱でもあるんですかぁ?」
からかうような、でもどこか温かい彼女のにっこりした顔を前に、俺はただ、猛烈に熱くなった顔を隠すようにして、最後の器を必死に磨き上げるしかなかった。
すべての食器を棚に片付け終えた頃、様子を見に行っていた七海ちゃんがリビングに戻ってきた。
「陽菜ねぇ、気持ちよさそうに寝てました」
「そっか。それなら安心だね」
深い眠りについた陽菜さんの姿を想像して、俺の胸の奥が少しだけ温かくなる。それと同時に、役目を終えた安堵感がどっと押し寄せてきた。
「そろそろ、俺帰るよ。あんまり長居するのもよくないし」
「えー、もうですか?」
七海ちゃんは露骨に残念そうな顔をする。ほんの一瞬、悪戯っぽい光がその瞳に宿った気がしたけれど、すぐにいつもの無垢な表情に戻った。
「でも、そうですね。お姉ちゃんも、これからゆっくり寝ないといけないし」
そう言って、玄関の方へ先導してくれる。
靴を履きながら、俺は最後に一度だけ、天瀬さんの部屋の方を見た。
――コトン。
微かに、部屋の方から物音がした気がした。
「……?」
「たぶん、寝返りですよ」
七海ちゃんはそう言って、にこっと笑った。
「安心してください。お兄さんが来てくれたから、今日はきっと、よく眠れます」
マンションを出て、夜風に当たった瞬間。
背後から、ふと視線を感じた。
振り返る。
上階の一室。
明かりのついた窓の向こうに、見慣れた影が立っていた。
天瀬さんだった。
カーテン越しでも分かる。
彼女は、迷いもなくこちらを見つけると、すっと手を上げた。
「ちょっ……」
反射的に、俺は周囲を見回した。
夜道。人影はまばら。
それでも、誰かに見られていないかが、妙に気になる。
情けないほど、胸が落ち着かない。
俺は、小さく手を振り返す。
それに気づいたのか、天瀬さんの手の動きが、少しだけ大きくなった。
その瞬間、顔が熱くなるのが分かった。
すぐに視線を逸らし、俺は歩き出す。
けれど、胸の奥には、確かな温もりが残っていた。




