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10話 お見舞い

 翌朝。

 いつもより少しだけ、早く目が覚めた。

 窓の外は、昨日の雨が嘘のように晴れ渡っている。

 その明るさが、なんだか無性に落ち着かなかった。


 教室に入ると、いつも通りの朝の風景。

 机を引く音、他愛ない会話、チャイム前のざわめき。

 トイレに行こうと廊下に出た時、偶然通りかかった天瀬さんのクラスの女子たちが話しているのが聞こえてきた。


「天瀬さん、今日休みなんだって」

「え、そうなの?」

「うん。風邪ひいちゃったみたい」


 足が、ぴたりと止まる。

 風邪。その二文字が、昨日一緒に浴びた雨の冷たさを引き連れて、頭の中で重く響く。

 自分の席に戻っても、黒板の文字は一つも目に入らなかった。


 俺は机の下でスマホを取り出し、天瀬さんの連絡先を表示させた。

 だけど、なんて送ればいいのかが分からない。

『大丈夫?』の一言すら送るのはひどくおこがましい気がして、打っては消し、消しては打つ。

 小さく息を吐いて、ようやく決心がついた。

 あまりあれこれ書くのも違う気がして、結局、一番初めに思いついた言葉をそのまま送ることにした。

 

『風邪、大丈夫?』

 

 送信ボタンを押し、画面が「送信済み」に変わる。

 返信なんて、すぐには来ないだろう。熱があるなら寝ているはずだし、そもそも既読にすらならないかもしれない。


 放課後のチャイムが鳴っても、スマホの画面は静かなままだった。

 『風邪、大丈夫?』の文字の横には、既読のマークすらついていない。

 やっぱり、スマホを見る余裕もないくらい熱がひどいんだろうか。それとも……。


 考え始めると、胸の奥がざわざわして落ち着かない。

 俺は逃げるようにカバンを掴むと、教室を後にした。

 校門を出て、家とは別の方向へ歩き出す。


 ……何か、お見舞いになるようなもの。

 道すがら目に入ったドラッグストアに、俺は吸い寄せられるように入った。

 棚の隅で見つけた、レトルトのたまご粥を手に取った。それから、リンゴ味のゼリーと、水分補給用のスポーツドリンク。コーンポタージュの粉末、桃の缶詰など。

 

「……何やってんだろ、俺」

 

 正直、何を贈れば喜ばれるかなんてわからない。

 そもそも、同じクラスでもない男がいきなり家まで行くなんて、迷惑じゃないだろうか。


 レジ袋を下げて店を出ると、夕暮れ時の街灯が点り始めていた。

 手に持った袋の重みが、そのまま俺の緊張に変わる。

 

 同じクラスでもない男がいきなり家まで行くなんて、普通に考えれば迷惑かもしれない。

 昨日、彼女を見送ったあのマンション。

 その前に辿り着いた時、俺はもう一度だけスマホを取り出した。

 画面には、依然として返信はない。


 俺はマンションの前を通り過ぎ、十メートルほど歩いてから立ち止まった。

振り返ると、エントランスの明かりが白々と歩道を照らしている。

 

 でも、もし、かなり具合が悪くて動けなかったら?

 そう思うと、また足がマンションの方へ戻ってしまう。

 エントランスのドアの前まで行き、結局、また背を向けて歩き出した。行きつ戻りつ。

 ただの不審者だ、と自嘲する。

 マンションの前を三度目に通り過ぎようとしたその時、ふと足元に視線を感じた。

 街灯の下、一匹の猫が丸くなって座っていた。

 迷走を続ける俺を「何やってんだ、こいつ」とでも言うような、冷めた目で見上げていた。

 ……猫にまで笑われてる気がするな。

 自嘲気味に息を吐いた、その瞬間。

 

「お兄さん?」


 慌てて振り返ると、そこには天瀬さんの妹の七海が、リュックを背負って立っていた。

 

「あ……七海ちゃん」


「やっぱりお兄さんだ。陽菜ねぇに会いに来たんですか?」


 俺の手元にあるドラッグストアのレジ袋をじっと見つめる。


「うん。お姉ちゃん、休みだって聞いてさ。返信もないからどうしてるかなと。そしてこれ、お見舞いになればと思って」


「わざわざありがとうございます」

 

 七海は少しだけ安心したように表情を緩めた。


「返信がないのは、スマホをどこかに置いたまま寝ちゃったんですかね」

 

「そっか……。それなら、ゆっくり休ませたほうがいいよね」

 

 俺がそう言って袋を差し出そうとすると、七海ちゃんは困ったように眉を下げた。

 

「あの、もしよかったら、中に入っていきますか? お母さんもまだまだ帰って来ないし……お姉ちゃんが起きた時、一人だと可哀想だから」


 その瞳は本当に姉を心配しているようで、純粋な頼み事に俺は言葉を詰まらせた。

 

「俺でいいの?」

 

「はい。お兄さんが来てくれたって知ったら、陽菜ねぇ、きっとすごく喜ぶと思うから」


 七海ちゃんは少しだけ安心したように表情を緩めた。けれど、ふと思いついたように真顔になって俺を見た。

 

「でも、お兄さん。あんなに家の前でウロウロしてたら、不審者だと思われるので気をつけた方がいいですよ! 私、遠くから歩いてきたとき、『え、誰か不審な人が家の前を偵察してる!』って思って、すごく怖かったんですから」

 

「……ごめん。そんなに怪しかったか」

 

「はい。行ったり来たり、すごい回数でしたね」

 

 純粋な心配からの忠告なのだろうが、それが逆に突き刺さる。恥ずかしさで顔を覆いたくなるのを堪えていると、七海ちゃんは気を取り直したように、リュックを揺らしながらオートロックキーを取り出した。

 

「入ってください」

 

 促されるまま、俺はリュックを揺らして歩く七海ちゃんの後について、昨日彼女が消えていったドアの向こう側へと足を踏み入れた。


 エレベーターを降りて、七海が鍵を開ける。

 

「お邪魔します……」


 静まり返ったリビング。家の中は時計の針が刻む音さえ聞こえるほど静かだった。

 

「お兄さんは、その辺に適当に座っててください。私、陽菜ねぇの様子見てきますね」

 

 七海ちゃんはそう言うと、リュックを背負ったまま奥の部屋へと消えていった。


「あ、陽菜ねぇ? ……うん、高梨さんが来てるよ。え、うん、本当だってば!」


 少しの間があって、シーツが擦れるような音がした。

 

「……え、高梨くん? なんで」

 

 廊下の奥から聞こえてきたのは、少し掠れた、驚きを隠せていない彼女の声だった。

 

「うそ、本当に来てるの?」

 

 バタバタと何かが動く音がして、しばらくすると、ゆっくりとした足音が廊下に響いた。

 キッチンの入り口に、少し厚手のカーディガンを羽織ったパジャマ姿の天瀬さんが姿を現す。


「……本当に来たんだ。びっくりした」


 照れくさそうにマスクを指先で直すその姿は、いつもの大人びた彼女よりもずっと幼く、そしてどこか守ってあげたくなるような危うさがあった。

 

「返信、できなくてごめんね。ずっと寝ちゃってて……」

 

「いや、いいんだ。……これ、お見舞い」


 俺が袋を指差すと、天瀬さんは中を覗き込んで「あ、桃の缶詰だ」と声を弾ませた。


「……ちゃんと、食べれてるの?」

 

 改めて彼女の姿を見て、俺はそう問いかけていた。


 天瀬さんは桃の缶詰を持ったまま、少しだけ考え込むように視線を落とした。

 

「うーん……。朝にゼリーを少し食べたきりかな。あんまり食欲わかなくて」

 

 そう言って、彼女はマスク越しに力なく、でも穏やかに笑う。


「あの、一応お粥も買ってきたんだけど、食べる? もし喉、通りそうなら温めるけど」

 

 レジ袋の中に残っていた、レトルトのたまご粥を差し出すと、天瀬さんは少し意外そうに目を丸くした。

 

「お粥まで買ってきてくれたんだ? ……ふふ、高梨くんって、意外と準備いいよね。なんか、お父さんみたい」

 

「お父さんって」

 

 茶化すような彼女の言葉に、俺は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。

 

「でも、お粥……。うん、食べてみようかな。高梨くんが買ってきてくれたから」


「わかった。じゃあ天瀬さんは部屋で寝てて。出来たら持って行くから」


「え、でも……悪いよ。高梨くんにそこまで」

 

「いいから。……ほら、フラフラしてるよ。大人しく布団に入ってて」

 

 俺が少し強引に促すと、彼女は観念したように、マスク越しでもわかるくらい柔らかく目を細めた。

 廊下の壁にそっと手を添えながら、自分の部屋へとゆっくり戻っていった。パジャマ姿の彼女が部屋の奥へ消え、ドアが静かに閉まるのを見届けてから、俺は大きく息を吐いた。

 俺は七海ちゃんに場所を借りて、買ってきたたまご粥の袋を小鍋に移した。

 コンロに火を点けると、静寂の中に「パチパチ」と小さな音が響き始める。お玉でゆっくりとお粥をかき混ぜていると、温かな湯気がふわりと立ち上がり、俺の緊張を少しずつ解いていった。

 

「……よし、できた」


 温まったお粥を小鉢に移し、さらにその隣へ、マグカップで熱々に仕上げたコーンポタージュを並べた。

 トレイの上で二つの湯気がゆらゆらと混ざり合い、キッチンには優しくて甘い香りが漂う。


「……えっと。お姉ちゃんの部屋、どっち?」

 

「あ、右側の奥のドアです。手前は私の部屋なので、間違えないでくださいね?」

 

 七海ちゃんがユーモアたっぷりに指を差して教えてくれる。

 こぼさないよう慎重にトレイを持ち上げると、俺は静かに廊下を進み、彼女が待つ部屋の前へと向かった。

 

 ドアを前にして、一度だけ小さく深呼吸をする。

 

 リビングにいる七海ちゃんの視線が背中に刺さっているような気がしたけれど、今は目の前のこの聖域に踏み込むことへの緊張で、頭がいっぱいだった。


 ドアの前で立ち止まり、俺は空いている方の指の関節で、トントントン、と軽くノックした。

 

「天瀬さん、お粥持ってきたよ。……入っても大丈夫?」

 

 少しの間をおいて、中から「……はーい」という、布団に籠もったような、くぐもった声が返ってきた。

 

 俺は意を決してドアノブを回し、ゆっくりと彼女の部屋へと足を踏み入れた。

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