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マスター

俺は喫茶店の前で立っていた。

外から中の状態をうかがう。

中にいるのはマスターだけだった。

どう伝えよう。

そもそも俺のことを覚えているかな。

まぁいい。恥をかいたって、今日で終わりだ。


(からんころん)


「いらっしゃいませ」

とマスターは言った。


俺は会釈し、カウンターに座る。


「あれ。今……朝じゃないですよね」

とマスターは言った。


「あっそうですよ。今は19時を回ったところです」

と俺は言った。


「いえ。お客さんがこられるのが、いつも朝の7時頃ですから」

とマスターは苦笑いをした。


「それで、ご注文は?」

とマスターは言った。


「あの。そうですね。なにがあったかな。モーニングしか頼んだことがないので……。

じゃあホットで」

と俺は言った。


「実はね。いろいろ珈琲があるんですよ。ブルーマウンテン、キリマンジェロ、モカ」

とマスターは言った。


「そうなんですか。俺はいつもホットコーヒーだけで、わかると言ったら、缶コーヒーのメーカーくらいです」

と俺は言った。


「そうですね。じゃあ、今のあなたの気分にあわせて淹れてみましょうか?」

とマスターは言った。


「そうですね。お願いします」

と俺は言った。

マスターとここまで話をしたのは、はじめてだ。


「今どんな気分ですか?」

とマスターは言った。


「実は明日……、

遠い所へ行かないといけないかもしれないんです。

そしてそこに行くと。

たぶん戻ってこれない……、

それもあってお伺いしたんですけど……、

どういう気分なんでしょうね。

なんかやるせないというか……」

と俺は言った。


「そうですか。

それは寂しくなりますね。

不安な気持ちはあります?

それとも期待でワクワクですか?」

とマスターは尋ねた。


「そうですね。

不安だけですね……」

と俺は言った。


「では。ブルーマウンテンをご用意しましょう。このブルーマウンテンというのは、ジャマイカのブルーマウンテン地区で栽培されるコーヒー豆で、この築はコーヒー栽培に理想的な条件が揃った土地だと言われています。甘味や酸味、そして苦みのすべてがバランスがよく。香りと口当たりの滑らかさが特徴で、コーヒーが苦手な方でも親しみやすいでしょう。

人生というのは、時に甘く、酸っぱく、そして苦い。

甘いばかりの人生では味気ない。

しかし苦いばかりの人生は辛い。

あなたの人生に、ブルーマウンテンのようなバランスの良さが訪れることを祈って」


マスターはそう言って、ブルーマウンテンを淹れはじめた。

ブルーマウンテンの香りが店内を包んだ。


その香りに俺の心がほぐれるのを感じた。


「あのマスター。朝のアルバイトの女の子いるじゃないですか?」

と俺は言った。


「はい」

マスターは言った。


「渡してもらいたいものがあるんだけど、良いですか?」

と俺は言った。


「もちろん。

ですが……、直接渡さなくていいのですか?」

とマスターは言った。


「たぶん。明日来れないと思うんです。

で……、もしいつもの時間に俺がこなければ、渡してください。

来れたら俺が渡すんで」

と俺は言った。


「なにか……、ご伝言は?」

とマスターは言った。


「手紙書きました。ごめん。へんな事お願いして」

と俺は言った。


「いえいえ。おやすい御用です。

それでは、どうぞ……、ブルーマウンテンです」

とマスターは言った。


俺はマスターにプレゼントを手渡し、

ブルーマウンテンを飲んだ。

たしかに飲みやすい。


あっちの世界にはブルーマウンテンがあるのかな。

そんな事を思った。


「お客さん。小腹すいていません」

とマスターは言った。


「そういえば少し」

と俺は言った。


「じゃあ。うちのまかない食べていきませんか?

そのアルバイトの子も好きな料理ですけど。

今日は私のおごりです」

とマスターは言った。


「じゃあ。お言葉に甘えて」

と俺は言った。


マスターは手早く調理をはじめる。

ナポリタンを鉄板で焼き、

その鉄板の横に割った卵をのせ数分焼く。

ナポリタンを少し焦がした匂いが食欲をそそる。


マスターはまかないを俺の目の前に出した。

「どうぞ。

うちのまかないメニュー。

ナポリタンの目玉焼き添えです」


とマスターは言った。


一口食べる。

なぜだか、

ボロボロ涙が出てきた。

俺のこっちの世界での最後の晩餐。

好きな子の好物。


「彼女はね。

タバスコを入れるのが好きなんですよ」

とマスターは言った。


俺もタバスコをかけてみる。

好きな子が、憧れてた子が好きなものを食べてる。

それで何か変わる訳でもないのに、

心の底からうれしかった。


「おいしいでしょ」

とマスターは笑顔で言った。


「……はい」

俺は言葉にならない声でそう答えた。


涙と鼻水が混じり合って、

もはや、味なんてわからなかった。


最後の晩餐。

最後の晩餐は、ほんの少しのピーマンの苦みもあった。


マスターに入口まで見送られ、俺は店を出た。

「もし遠い所にいかなくて済んだら、また着ていいですか?」

と俺は言った。


「もちろん。その時は、また別のまかない。御馳走しますよ」

とマスターは言った。


そとは暗くなっていた。

外套がちらちらしていた。

LEDライトの冷たさで、虫がよってくるわけでもなく。

ただぼんやりと暗闇を照らしていた。


俺は明日この世界をたつんだ。


そんな実感は到底もてなかった。


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