終章 — 潮の声を聞く者たちへ
いくら石碑を巡る物語は、未だ誰一人としてその核心に触れることなく、いくつもの断片を残したまま、霧の中に消えていった。高坂宗一郎は失踪し、スラブチェフ博士は行方知れず、李紅蓮は沈黙を貫き、杉本了一は鮭の鱗に覆われた肌を持ちながらも、いくらを忌避するようになった。
そしてアマンダ・コールフィールド博士——彼女の研究成果は、まるで初めから存在しなかったかのように、学会の記録からも、論文のデータベースからも消え去った。それでもなお、彼女が語った「いくら循環理論」の断片は、今も一部の研究者たちの間で密やかに受け継がれている。
奇妙なことに、彼らの証言には共通して「潮の音」が登場する。誰もがいくら石碑の近くで、あるいは石碑から離れた場所でさえ、あの満ち引く潮の音を耳にしたという。そしてその音は、時として人の声に変わり、低く、遠く、響き渡るのだという。
「いくらの声を聞け。」
「潮は時を超える。」
「我は汝なり、いくらなり。」
これらの言葉は、研究者たちが記したノートや、録音データの中、あるいは夢の中で語られたものとされる。しかし、その声を聞いた者の多くは、奇妙な精神的変調を来し、やがて研究を放棄するか、あるいは失踪している。
いくら石碑の周囲では、今もなお、夜になると潮の匂いが漂い、冷たい風が吹き抜ける。そして満潮の夜、月が高く昇った時、石碑の表面にわずかに揺らめく影が現れ、橙色の光がかすかにきらめくという。
それが「いくらの王」の微笑みであるのか。
それとも、石碑が抱える深淵の一端に過ぎないのか。
誰にも分からない。
いくら石碑は、今も変わらずその場所に在る。
潮の音に耳を傾ける者を、黙して待ち続けながら。
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