『いくら石碑』と研究者たちの不遇譚
いくら石碑の謎に挑んだのは高坂宗一郎だけではなかった。むしろ、高坂の失踪以前から、この奇妙な石碑に魅せられ、あるいは呪われた研究者たちは数多く存在した。しかし、誰一人として「完全な解明」に至った者はいない。それどころか、その多くが不可解な災厄に見舞われ、志半ばで筆を折る羽目となったのだ。
1. 植松 源五郎 — 鮭と共に消えた男
大正期の民俗学者・植松源五郎は、いくら石碑の存在を最初に学術的に記録した人物である。彼は現地調査を繰り返し、石碑の周囲に散らばる謎の小石を「いくら石」と名付け、それを採取・分析しようと試みた。しかし、彼がいくら石を持ち帰った翌日、自宅の庭先に無数の鮭の切り身が積み上がり、家の前の水路が赤い魚卵で埋め尽くされていたという。
近隣住民の証言によれば、その晩、植松の家からは「おお、いくらよ、我が身に宿れ」といううわごとのような声が漏れ聞こえた。翌朝、彼の姿は忽然と消え、残されたのは彼の書斎に散らばったイクラの粒と、机に書き残された「鮭に従え」の文字だけだった。
2. ジャン=ピエール・デュラン — いくら中毒の悲劇
1974年、フランスから来日した考古学者ジャン=ピエール・デュラン博士は、いくら石碑に「古代アトランティス文明との関連性がある」と主張し、学会を賑わせた。彼は「いくらとは実は失われたエネルギー資源の一形態である」とし、その活性化のために、石碑に向かって大量のいくらを供え、独自の「いくら波動実験」を行った。
しかし、その翌日、デュラン博士はホテルの一室で異常な状態で発見される。なんと、彼の胃袋からおよそ3キログラムのいくらが発見されたのである。通報したホテルのスタッフによれば、博士は「いくらこそ真理だ。私はいくらと一体となる…」とうわごとを繰り返しながら、夢遊病者のようにいくらを口に運び続けていたという。
この事件をきっかけに、デュラン博士は「いくら中毒症状」によりフランスへ強制送還。その後も鮭を目にするたびに震えが止まらず、最終的には南仏の修道院で余生を送ることになった。
3. 加茂 菊乃 — 呪われた論文の行方
比較的新しい例として、2018年に札幌の大学院生であった加茂菊乃のケースがある。加茂は「いくら石碑と北方シャーマニズムの関係性」をテーマに修士論文を執筆中であり、独自に石碑を3Dスキャンし、データ化を進めていた。ところが、最終審査を目前に控えたある日、彼女のパソコンから論文データがすべて消失。バックアップも破損し、USBメモリに残していたデータも全てが「いくらの写真」に置き換わるという不可解な事態が起こった。
驚いた加茂は教授に相談しようとしたが、講義室に向かう途中、突然天井の蛍光灯が爆発。その破片が偶然にも彼女の持っていた論文ファイルを貫き、そのまま焼失させてしまった。以後、加茂は「私はもう、いくらのことは考えたくありません…」と語り、研究の道を断念したという。
いくら石碑は、研究者たちに無尽蔵の好奇心を抱かせつつも、触れた者に奇怪な災厄をもたらしてきた。そこには「何かを知ろうとする者を拒む力」が働いているかのようである。鮭神の怒りか、あるいは人智を超えた“いくらの意志”か——。
いまだ解明されぬその真実を前に、人々はただ、静かに潮騒の音を聞きながら、いくら石碑の前に立ち尽くすしかないのだ。