『いくら石碑』の封印が解かれるとき
2022年のある晩秋、ひとりの研究者がその石碑に再び注目することとなった。名を高坂宗一郎。北海道大学で民俗学を専攻する彼は、かねてより「いくら石碑」をテーマに論文を準備していたが、現地調査の折、ある不可解な現象に遭遇したのである。
その日、高坂は石碑の表面を触診し、文様の微細な凹凸を記録していた。すると、突如として碑の表面から温かな脈動が伝わり、手のひらを伝って体内に響き渡るような振動が起こったという。そして次の瞬間、周囲の空気が微かに塩の香りを帯び、彼の目の前で石碑がわずかに揺らめいた。いや、正確には「石碑の表面が波打つように揺らいだ」のだ。
その幻影の中、高坂は鮮烈なビジョンを見た。広大な海原、渦巻く潮流、無数の鮭が群れを成し、その中央に君臨する一尾の巨大な黄金色の鮭。その瞳は人間のもののように深い知性を宿し、口を開くと低く響く声でこう告げたという。
「いくらの声を聞け。石の封印は、潮の満ち干により解かれる。」
高坂は夢か幻か分からぬまま、次に「潮の満ち干」を調べ始めた。そして、潮の干満の周期と「いくら石碑」の周囲の磁場変動に奇妙な一致があることを突き止める。さらに、石碑の台座には極めて微細な隙間があり、それは潮の最高潮時にわずかに開く構造になっていたのである。
この発見をもとに、高坂は大胆な仮説を立てた。
「いくら石碑は、周期的に“封印”を緩め、いくらの霊的エネルギーを放出している。これが周囲の自然環境、さらには人間の精神状態にまで影響を及ぼしている可能性がある。」
しかし、彼がこの仮説を発表しようとした矢先、奇妙な出来事が立て続けに起きた。高坂の論文データが保存されたパソコンが突如として海水で濡れたような状態でショートし、論文原稿はすべて消失。加えて、彼の住む下宿先の冷蔵庫からは、保存していたイクラの瓶がすべて消え失せ、代わりに「いくら石碑を守れ」という文字が書かれたメモが残されていたという。
高坂は以来、公の場に姿を現さなくなった。
だが、いくら石碑の噂はますます広がり、今では一部のスピリチュアル信者の間で「石碑に触れると“鮭の意識”と繋がり、宇宙の根源的な生命の流れを感じられる」という都市伝説めいた話がささやかれるまでになっている。近隣の住民からは「いくら石碑の周りでは潮の匂いが強まり、時折、空中に小さなオレンジ色の球体が浮かび上がる」という報告が後を絶たない。
いくら石碑。
それは単なる供養の場ではなく、いまだ人智の及ばぬ「鮭の神秘」を封じ込めた、時を超えた何かの装置なのかもしれない。
あるいは、この地に生きる人間たちが無意識に抱える「自然への畏怖」「海への感謝」、そして「鮭への敬意」を形にした存在なのかもしれない。
次の潮の満ちる夜、いくら石碑は再びその封印を緩め、忘れられた鮭の王が、海霧の向こうから静かにこちらを見つめているかもしれない――。