やっちゃん 9
下戸だというのに、相南とかいう消防署の奴が酒を飲んでいる。
誰が呼んだんだか、管轄署の救急車でサイレン鳴らして宿まで送って来てもらってと、やりたい放題。
相変わらずの底無し馬鹿騒ぎに勢いがついちまった。
俺が招待するつもりだった温泉旅行だったが、何時の間にやら宿ごとヤブに乗っ取られている。
最初は俺に愛想笑いしていた仲居も、忙しいふりをしてだんだん俺をそっちのけにしだした。
最も、着いて直ぐに何時もなら仲居に茶代を出すところを、親分が挨拶に来たり宴会が始まったりで、うっかり渡しそびれていた。
宿の掛かりは全部親分持ちとなると、今回の招待に用意していた金が総て浮いた勘定になる。
いくら安く上げるつもりだったとはいえ、自分を入れて五人と猫一匹だ、猫一匹?
おい、何処からついてきたんだ、その猫。
宴会の中、座敷を診療所の猫が当たり前にうろついていやがる。
貸切となると、ヤクザばかりか猫まで大威張りだ。
何れ何万もの金が消えるのを覚悟していた。
今更五万十万の出費は屁でもねえ。
勝手知ったる宿屋だ。
仲居連中の処へ行って、仲居頭に声をかけた。
どうだこの野郎とばかりに五万円包んで渡したら、変な顔をされた。
他の仲居や板長まで、顔を出してニヤニヤしている。
女将がやって来て「心付けやったら、銚房医院の院長先生から、昨日のうちに大枚いただいてま。やっちゃん先生は余計な事せんと、ゆっくり遊んで行って下さいな」とぬかしやがる。
そう言えば、さっきそんな奴から「これからよろしくお願いしますよ」と挨拶されていた。
とんでもない奴等が集まって来たものだ。
せっかく出した心付けも、丁寧に懐へ押し戻された。
昨日の内にこの温泉へ浸かりに来ると決めたのが、昨日の内に大枚の心付けを頂いてるとはどういった事だ。
女将が言うには、銚房医院というのはヤブが全面改修の費用を出した病院だとかで、ヤブが病院を乗っ取ったと言うのは俺の勝手な早合点だった。
この病院は院長こそヤブの同期で親しい間柄だが、でかくなりすぎて内部の派閥や業者との利害関係やら、つまらねえ争い事が絶えないと外部にまで噂が広まっている。
どうにも出来ない内部の諍いに、院長は御手上げ状態になっていた。
内部抗争の激化に経営が傾いても、医師は一切お構いなしに好き放題やっている。
この地域に設備の整った大きな病院はこの病院きりで、近所の病人は事が大きくならなければいいのだがと、何時も心配していた。
最初は遠くから眺めていたヤブだったが、病院の荒廃ぶりを見聞きするにつけ、どうにも我慢がならなくなったらしい。
そんなこんなで、今の院長に助け船を出したってのが事の成行。
改修して小奇麗になったって、内から変えなけりゃどうにもならないと思うのだが、ヤブ馬鹿のやる事は合点がいかねえ。
銚房医院てのが、ガキの頃ここら辺りで暴れて怪我をした時に担ぎ込まれた小汚ねえ診療所の成れの果てなら、大概の見当は分かっている。
狭い交差点を二三度曲がったら直ぐに板塀があって、貝殻を敷きつめた砂地の所々に芝が生えていた。
確か来る途中にあったはずだが、気付いたのはフェンスや足場で囲われた所に、看護士や救急車や年寄りが忙しなく出たり入ったりしていた工事現場だけだ。
病院だか何だか分かんねえバス停の景色。
俺が昔世話になった診療所があれだというなら、随分とでかくなったし周りの道路まで整備されて、景色もまったく変わってしまっている。
昔はここがなんて、気付かなくて当たり前の変貌ぶりだ。
ここまでくると、俺みてえな貧乏性が出る幕じゃねえのが薄々分かって来た。
ヤブは随分と前から今日の宴会を計画していたようで、普段休みが有っても面倒だと言って診療所でゴロゴロしている俺を、無理矢理ここまで引っ張り出すのに仮病まで使った。
加えて俺はマヌケにも、地回りやら院長やらと顔合わせさせられている。
ヤブの罠にズッポリはまっちまったみてえだ。
宿に着いてから宴会と風呂場の行ったり来たりを何回か繰り返した夕暮れ時。
どこかのキャチバーから出張して来たような、激しくケバイ女がロビーで俺を呼び止めた。
たまに遊びに来ていたから、近所で飲まなかったとは言えないが、どれ程安い呑み屋でも、ここまで下品な女は見掛けていない。
忘れた頃にやって来たつけうま集金でないなら、何者だろうが俺の知ったこっちゃねえ。
さっさとサウナで汗出して酔い醒まし。
シカトこいてやったら、後ろから無言の飛び蹴りを喰らった。
何で俺が温泉まで来て、仮面並の厚化粧女から飛び蹴りくらわにゃならんのよ。
「あんちゃーん」
腐れ女が、倒れた俺に乗っかって抱き付いてきた。
変態かこの女!
何事が起きたのか俺にはサッパリだが、まわりの連中はデカ尻女を知っている様子だ。
馬乗りになったイカレ女と、ニコヤカにハイタッチしている。
中には、俺より二回りもでかくて強そうなのがいる。
ここで下手に無礼女を振り払って、あんな奴とやり合うのは得策じゃねえ。
「あんた、誰?」小声で聞いた。
少し足りない女が、ケツの下から俺を解放してくれた。
小走りでロビーのソファーまで戻った破廉恥女が、倒れている俺を手招きする。
このまま男湯に逃げ込んでもいいが、組関係の女らしいし、ここまでケバケバでいられる奴なら、平気で男湯の中まで追いかけてくる。
観念して、俺もソファーに深く座った。
出された名刺には【矢羅逗 法律事務所】と書かれている。
宴会の時に同じ名刺を渡された。
色黒で薄髭のある顔は、大きな目の周りがタヌキの様な男だった。
女を見れば化粧だろうが、目の周りがさっきのおっさんみたいに黒っぽい。
同じ法律事務所の事務員でもあるのか。
タヌキ女がやけにもったいぶって、名刺を裏っかえして見せる。
「まあ精出して頑張ってちょうだい」
全文が読めないほど大きな朱印の捺った辞令を俺に渡した。
名刺の裏には【銚房医院 理事長】の肩書がある。
どっちが表だよ。