やっちゃん 40
数日して、野ざらしが病院を辞めて行った。
ファイルをくれたのだって彼奴の事だから、これだけの欠員に備えておけと言いたかったからで、自分も辞めていく都合があるから少しは後ろめたいのが手伝ってだ。
心底病院や患者を気遣ってじゃない。
副院長としてずっと高い給料をもらっていたんだ、どうせ辞めるなら欠員を埋められるだけの医師や看護師を手配してから辞めるべきだ。
俺との手術があいつにとって、この病院最後の手術になった。
辞める気だったから、最後に自分の腕を俺に自慢したかったからに決まっている。
悔しいかな奴が手術の腕は確かなもので、それだけは認めなきゃなんねえ。
仕返ししてやる前に辞められた腹立たしさが、どうにも治まらない。
野ざらしが行った先は悪評高き丘の上リゾートで、賃金はここより低いが、個建の宿舎がリゾートのすぐ隣に用意されている。
おまけに、リゾートの設備サービスを自由に使える。
患者は会員だけだから呑気なもので、交代制の24時間態勢でいるとはいえ、ERのように年中気を張っている必要もない。
一般の医師なら、近所の病院にいるより安全で待遇もそこそこだ。
鞍替えするのは分かるが、野ざらしの場合はどう考えたって待遇はここより悪い条件ばかりだ。
病院に怨み事でもない限り、移動の理由が見当らない。
地震が頻発しているから客なんか来ないだろうと思っていたが、シェルターが完備されているから下手に他で遊んでいるより安心できる。
施設に併設された検査棟で人間ドックを受け乍ら、何日も休暇で滞在するのが昨今の流行りになっている。
実家の災害が落ちついて、今度はこっちにそいつが移動してきた格好になっている。
そのうちそこら中が同じになると言われてはいるが、他の地域はまだ安定したもので、ここの地震ばかりがニュースで流されているのに、そのまっただ中へ観光にやってくるのだから世界は広い。
思ったより物好きが大勢いるものだ。
野ざらしが辞めて行った日、赤チンが俺に手紙をくれた。
辞めていく前日、俺に渡してくれと野ざらしが預けたらしい。
何で赤チンに預けたんだろう。
ひょっとして辞める前日ってえ時に、野ざらしと赤チンが一緒にどこかにいたとか……余計な詮索がウゴウゴしている。
だいたい何で直接渡さない。
それより面と向かって話せば済むだろうに、俺が怒って手を出すとでも思ったか。
根性無しの意気地なし。
副院長で御座いますと威張っていたって、頭でっかちの弱虫には違いない。
どこまでいったって野ざらしとは仲良くなれないと思っていたから、いまさら何処へ行こうが何をやろうがどうでもいい。
あいつが医者になったのだって、どうせ他より給料がいいからくらいに始めた事だ。
そにな奴に、災害時の救命拠点病院の副院長が勤まる方が変てものだ。
きっと手紙に書かれてある事だって、自分がやれなかったERの部長に俺がなったものだから、その事で有る事無い事チクチク並べた嫌味だらけだ。
そんなもの見るのも癪の種だが、読まない事には文句の言いようもない。
仕方なしに宿に帰ってから酒を呑んで、少しばかり酔った勢いで読んでやった。
《君は馬鹿だ。
私が最も嫌いなタイプの人間で、品も無ければ知性の欠片も君には見る事ができない。
君は政治を知らない。
ある意味それは君や君の周りにいる人にとって幸せなのかもしれない。
私がERを作ってくれと言い出した切っ掛けは、君も既に知っているだろう。
受け入れ病院が見つからず、救急車で亡くなった妻の一件があったからだ。
今振り返ってみると、世の為人の為などと勢いづいていたあの頃の自分が恥ずかしい。
何を言ってもどんなに飾っても、結局やっていた事は現在の医療制度に対する勝ち目のない反逆でしかなかった。
今の世の中、何をやるにも政治がついてくるものだ。
それをやらない君は、ただ闇雲に目的だけに向かって走っていた自分を見ているようだ。
とても不器用で滑稽だ。
君を見ていると、無性に怒りが湧き出て来るのを抑えられない。
私は、手段という地図も政治という磁石も持たずに、目的地に向かって歩き出している事に気付いた。
これでは何時になっても目的地に辿りつけるはずが無い。
いずれ道に迷ったまま、どこかも分からない路傍で朽果てるに違いない。
医師として、人の命を預かる事・人の病や怪我を治す事を【職業】とするか、己の【生きる意味】とするかは個人の自由だ。
それくらい君だって分かるだろう。
危険な地域に留まり、災害で傷ついた人達を助けるのが医者の仕事だと君は思っているかも知れない。
だがね、被災地でなくとも病気や怪我で苦しむ人は大勢いるのだよ。
裕福な者にも貧しい者にも、疫病神と死神は分け隔てなく憑りついてくれる。
貧乏神はえこひいきが好きなようだがね。
君は何か勘違いしているようだ。
いずれその大間違いに気付く時がくる。
では、元気だけが取り柄なのだから病気などしないように、酒は程々にしておきたまえ》
ロクでもない事ばかりで、何が言いたいんだかわかりやしない。
やはり俺の悪口ばかりで、直に言えない事だらけだ。
悪口さえも、陰で言うか人に頼んだ手紙でするしかできない。
最後の最後まで女々しい奴だ。
どこかで見かけたら、絶対にぶち殺してやる。
「環太平洋火山帯の活動が、活発になっているとの報道があった。分かり難い表現だが、これでも諸君の動揺を抑えるのに気遣っているから、こんな表現になっている」と院長が会議の席で訳の分からない事を長々と言っていた。
後になってハリネズミに何の事だか聞いたら「これから恐ろしい災害が始まるのだよ」と説明された。
「それなら今頃説明しなくたって、とっくに地震が起って怪我人が何人も入院しているぞ」と言ってやった。
ハリネズミはあきれ顔になって「君は平和でいいね」と言う。
俺もここのところ揺れが治まっていてくれて、世界が平和でいいと思っていたところだ。
タヌキ女と赤チンが、昔懐かしい教科書を持って宿に押し掛けてきた。
院長が会議で言っていた事を、俺がまったく理解していないとハリネズミが二人に告げ口したからで、やはりあいつは俺の財布なみに軽い男だ。
「あんたが分かってなくて、どうやって私学の学生に事情を説明するのー」
二人とも凄い剣幕で、俺が私学の生徒に教えてやらなけりゃいけなかったのを改めて知った。
この晩は明日の授業の為、徹夜の勢いで猛勉強させられた。
結局、授業の前に三時間ばかり寝ただけで私学に行った。
難しい決断をしなければならない大切な授業だから、俺みたいに分からないまま適当に居座るなんて事の無いようにしたい。
どの子にも分かるように噛み砕いて説明するのはなかなか難しい。
第一に、自分が理屈を理解していないと説明できない。
してみるに、ハリネズミは凄い奴だ。
どんな難しい事だって、誰にでも分かる面白い話にして聞かせてくれる。
教室であれこれ説明していて、そんな事をフッと思った。
どうせならハリネズミにここで一話語ってもらった方が早いから、急ぎだと言ってハリネズミを学校に呼びつけた。




