やっちゃん 30
院内にいったって探し難いぬらりひょんに命がけで隠れられると、フル稼働した赤チンでも捜索は困難を極める。
どんなに頑張っても、あいつは半径50㎞より外に出られない性分だと分かっていても、半径50㎞は病院より広い。
さらわれたのなら話は早い。
警察と俺の伝手を使い、人さらいをしそうな悪党を片っ端からしょっ引いてきて、自白剤を打てばどこかで引っ掛かる。
ところが今回は、善人が自分から行方をくらましたから厄介だ。
タヌキ女が言っていた。
「またあいつの病気が出た」
ならば、以前にも同じ事をやっている。
その時の足取りを辿って行けば、いずれぬらりひょんに辿り着けるだろう。
赤チンに、ぬらりひょんの記録を探してもらったが、病院のコンピューターに有る筈のぬらりひょんの記録が、総て消されていた。
一度保存されたデーターは、権限ある者が閲覧できても消す事はできない。
それは記録した医師も同じだ。
たとえ自分の記録であったり自分の患者であっても、書き変えや末梢は不可能だと説明されていた。
だーがしかし、消えているんだから可能じゃねえか。
コンピューターの記録は跡形も無く消え失せている。
何か他に記録は残っていないか探していたら、やつが入院していた時の手書き診療記録を、タヌキ女が探し出して来た。
俺が初めてぬらりひょんに会ったのは病室で、やつは患者として入院していた。
カルテを見ると、この時に入院を勧めた医者が書いたものだった。
日常でも病的に几帳面な男だった。
自分が患者で問診を受けてるってのに、診察した医師の記録違いを事細かに訂正させている。
これでは担当医はたまったものではない。
苦労させられた患者だから、しっかり記憶に残したのだろうが、この医師はすでに転勤していた。
数年間この病院に籍を置いていて、ぬらりひょんの主治医だった。
是非とも詳細を聞きたいと連絡先を探したが、余程病院かぬらりひょんとの縁を絶ちたかったのだろう、連絡先記載がない。
看護記録を探したが、これまたデーターが削除されている。
ぬらりひょんが無断欠勤した前日、ぬらりひょんの使っていた端末からメインに侵入を試みた痕跡がある。
これはレベル2の侵害だから10まであるセキュリティーレベルから見れば遊び相手にもならない。
記録の心臓部である電子カルテの領域には、何の問題もないはずだと言うが、消えているんだから問題あるだろ。
俺は何が面白くないといって、実際に目の前で起こっている事実を見ないで、理論上はとか教科書には・過去の事例ではと言った具合に、己の不都合を他の不具合にすり替えようと努力している姿を見る程腹の立つ事はない。
消えているものは消えている。
理屈がどうだこうだを言う前に、復活できるかどうかやってみろ。
紙の手書きカルテによれば、以前失踪した時は、屏風ヶ浦のキャベツ畑の端っこに、テントを張ってサバイバルしていた所を発見されている。
失踪宣言してから一日もしないで「畑に不審者がいる」
地主からの通報で警察に連れていかれ、院長が保証人になって身請けしていた。
俺と一緒に仕事した一年で、奴も少しは成長したし利口になっている。
テントは持って出ていないから、サバイバル生活に戻る気はないだろう。
こうなってくると過去の記録があてにならない。
原点に戻って動機を推測すると【ハリネズミの暗殺に失敗した悪の帝王が、次のターゲットに自分を選んだから逃げる】しか思い浮かばない。
あいつの思考回路は複雑に混み入っているから、きっとこんな動機が産れた。
だとすれば、あいつが悪の帝王かその部下だと思いそうな奴は誰かと考えてみた。
すると、ぬらりひょんがどうやったって正義の味方じゃないと決める敵が一人だけ浮かんで来た。
副院長の野ざらしだ。
俺は証拠だ証言だなんてモタモタやっているのが嫌いな者だから、思いついたらすぐに野ざらしの所へ行って「てめえ、ぬらりひょんに余計な事を吹き込んだんじゃねえのか」と直に聞いた。
野ざらしの部屋は、大企業の社長室みたいになっている。 でかくて四つ角を彫刻で飾った机がある。
椅子もフカフカの黒皮張りだ。
その椅子に、いつも深々座っている。
俺がねじ込んだ時は背中を丸めたものだから、机に体がすっかり隠れてしまった。
机の向こうから野ざらしが言う。
「僕は副院長だよ。医療の事で他の医師と意見が合わなくて議論する事はあるが、あれほどデリケートな精神状態の人間に、うっかりした事を言うほど非常識だと言うのなら心外だね。ついこの間だって、僕の母校で精神と脳の関係についての研究チームを編成していた時だったから、彼を一緒にやらないかと誘ってあげたほどだよ」
「それだよ、馬鹿野郎。あいつは、お前から悪の手先になるよう誘われたと勘違いしたに違いない。いつだってオドオドひ弱な奴だけどな、あいつは悪い事が大嫌いだ。仲間に成りたくなくて家出したんだよ」
すっかりアニメの世界に入り込んじまった奴が、現実世界で誰に助けを求めるだろう。
俺に頼ってケッチンくらってんだから、あとは赤チンかハリネズミにタヌキ女といったところか。
他には宿の女将が限界線に浮上するものの、誰もぬらりひょんの行方を知らないから騒ぎになっている。
だからといって、ぬらりひょんばかり追い駆けていたのでは見つかりはしないと気付いたから、野ざらしの所に来ておぼろげながら失踪の原因を突き止めた。
今回、ぬらりひょんを見つけ出すには、表面に表れた所だけ見て捜索しても、糸口さえ掴めない。
あいつの心理を理解して、奴に成りきって行く先を探るしかない。
以前見つかった時は入院を経て現場に復帰しているが、みつかったと仮定して処分がどうなるか気になった。
身辺で友人が何者かに狙撃され、死線を彷徨う事件があったばかりだ。
ハリネズミとたいして親しくない者でさえ動揺を隠せずにいる。
ぬらりひょんにとっては、自分にも降りかかってくる恐怖であったに違いない。
誰だって、暗殺者に狙われていると知ったら逃げ出すものだ。
それが間違い勘違い思い過しだったからと、ぬらりひょんの失踪を責めていいものだろうか。
周囲に信じられる者が僅かしかいないで、その僅かばかりの味方も自分の言う事を真に聞いてくれない。
俺だったらどうしていたろう。
以前も不安障害の悪化で被害妄想に憑りつかれた結果の家出だが、院長判断で六ヶ月の停職処分で済ませている。
医師から入院を勧められて仕事はできないから、建て前として停職にしただけで、本音は長期の求職願い受理だ。
今回も同じ処分なら、奴も余計な気苦労なしに養生できるだろう。
だが、二度目となると野ざらしを筆頭にER存続に反対姿勢の連中がここぞとばかり、ERに携わる医師の切り崩しにかかるのは必至だ。
それとこれとは別だろうと言ったって、奴等からすれば坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの例えのままだ。
根っから、病人の事より銭金の方が気になる連中だ。
自分から出て行った医師とはいえ、病人が一人失踪して捜索真っ最中だってのに、野ざらしの所へ集まった連中が「奴が外で何かする前に除籍してしまえ」と騒ぎだしている。




