やっちゃん 29
俺が来る前の計画段階で、メンタルケアの方法は決定事項だった。
担当医師には、ぬらりひょんが抜擢されていた。
準備期間中の事件当日、ぬらりひょんは行方不明になっている外科医師とどこかで同席していたようだ。
ところが、その記憶があやふやで、もしや自分が事件に関わっているのではといった不安が、自身の精神を破壊していた。
もし事件がおこった時、その場にぬらりひょんがいたなら気付かない訳がない。
とっくに警察が調書を取りに来ているはずだ。
警官の中には不良もいるが、全部が全員ではない。
まともな警官の方が多いと思いたい。
ハリネズミの話だって、全てが本当にあった事ではない。
客の気を引くように創作されている。
事実として受け取ってはいけないと言い聞かせてやる。
ぬらりひょんは精神科の医師だ。
本来ならこいつが患者に言わなきゃならない事を、俺が言ってやっている。
こういった、医師でありながら病気に憑りつかれた医者をもう一人知っているが、奴はぬらりひょんと正反対の性格で、出来る事なら二人の性格を足して二で割りたい気分だ。
ERでは緊急時の対応はしても、その後のケアは担当科が引き継いでいる。
ただ、緊急搬送された経緯が、事件に巻き込まれたとか悲惨な事故に遭遇したりがよく有る。
術後のメンタルケアが必要だと判断した場合は、一環してぬらりひょんが退院するまで精神科絡みの担当医となる。
その医師自身が不安の塊なにっていたのでは、かえって患者に不安の苗を植え付けているようなものだ。
こっちまで不安になってくる。
二人きりで始めたERの医師も、今では外科を中心に十人の医師でローテーションを組んでいる。
外科の医師が多い中に、日頃犬猿の仲にある脳神経外科の医師も二名混じっている。
親分同士は好ましからざる関係でも、総ての医師が敵対した関係ではない。
脳外科の医師にも外れ者がいる。
ERに所属した二人も、脳外では上手くやれていなかった医師だ。
医師の他にも、麻酔医に手術看護士・レントゲン技師等で構成された七人のチームが、常時二組待機している。
理想に近い編成だが、救急のない時にボーと待機しているだけではやっていけない。
これが私立病院の辛い処で、計画的な手術や治療には参加できないチームだが、緊急要請のない時には他科の手伝いをしている。
職員の名札にはICチップが組み込まれていて、勤務中は何時何処で何をしていたかが細かく記録されている。
ERのスタッフが他科を手伝った時間を集計していて、緊急時には他科からERに出向して、その時間を返す仕組みになっている。
ここ数日、ぬらりひょんを見かけない。
欠勤届が出ているでもなく、完全に無断欠勤だ。
重い病気を抱えているとはいえ、重責にある医師がプイッと消えてしまっては他の者に示しがつかない。
常日頃の引籠り系だ、行動範囲は限られている。
狭い街の事、すぐに見つかるだろうと心当たりを探して回ったが、どこにも見当たらない。
タヌキ女が「またあいつの病気が出ちゃったね」
諦めて代替え要員を手配する段になって、私学の連中が俺を訪ねて病院にやってきた。
ぬらりひょんは、今いる患者の容体とケア体制について学生達に教えていた。
「暫く留守にするから、引継いでください」と、丸投げしてから消えていた。
計画的失踪に加え、患者の個人情報を外部に公開。
医師法違反までやらかしている。
弁護士であるタヌキ女が、そんな暴挙を黙って見過ごすはずない。
呆れて見ると「ハイ、君達、今からボランティアって事で、がんばってね」
名札を作って授与式まで準備して、俺の意見など聞く気もなく患者に紹介して周って…いいのかよ。
赤チンが、失踪前のぬらりひょんが取った行動を、名札の情報と監視カメラ映像を使って解析している。
部長だから人員手配の権限があって、全職員の行動情報を閲覧する事ができる。
今ではこれが赤チンの道楽で、職員の社内恋愛相関関係図まで作って、人の恋路を邪魔して喜んでいる。
病院も、とんでもない奴に閲覧許可を出してしまったものだ。
院長は未だに院内情報の見方に慣れなくて、病院は邪神に天の鏡を奪い取られた状態が続いている。
あんなんで、よく院長が勤まるものだ。
あれでいいなら、俺でも院長になれそうだとの念に堪えないが、院内で事件がある度、赤チンが情報解析して素早く解決してしまうから、今では赤チンを病院の科学警察と祭り上げる者まで出て来ている。
今回、不幸にして事件を起した張本人は、赤チンと昵懇にしていたぬらりひょん。
捜査を勧め難いのが、進展状況の報告を聞くだけでもよく分かる。
いつもほどの勢いが、赤チンから感じられない。
しかし、非公式とはいえ家出医者の捜索を請け負ったからには、ぬらりひょんを探し出さなければ閲覧権限の剥奪も有りうる。
院長に発破をかけられて、尚の事苦戦している。
俺は、院長が赤チンに発破をかけたのを聞いて、なるほど、ボケだカスだと言われているが、院長ともなると普段から心構えが違う者だと関心した。
少々、権限の乱用には目を瞑って遊ばせておいて、いざって時になったら、それまでしてきた悪さの付け払いを必死にやらせる術を心得ている。
そうしておいて、赤チンがしくじって大事になっても「私の一存で部下にやらせました」と院長が、辞表の一つも書けば総て丸く収められる。
部下の悪戯に目を瞑るってのはそういう事だ。
良いも悪いも抜きにして、極道の世界でも「あの親分が詫状書いたんだから、ここは鉾を納めるのが筋ってもんじゃねえんですかい」と言った具合に、もめ事の火種を消すものだ。
何時までも火種を燻らせたままでいたら、そのうち本格的に火の手があがっちまう。
最期は誰が頭を下げるのか、物事が治まるか戦争になるかの別れ道だ。
第一、常識から言っても分かる事だ。
赤チンに、個人のプライバシーを自由に覗き見られるアイテムを預けたら、文句無しの悪用玩具にするに決まっている。
タダで済むなんて考える方が異常だ。
もし、ぬらりひょんの失踪に赤チンが関わっていたとなれば、赤チンは捜査を適当にはぐらかす。
今、手術室にいる時より緊張した面持ちで、捜査している赤チンは容疑者から外せる。
こんな時に一番怪しい奴を、一番最初に容疑者リストから外せるだけでも、院長がこれまで取って来た対応が的確だった事の証明になるってものだ。
病院の中にいたって生き残るのが危なっかしい奴にしては、一人で誰も知らない所に雲隠れするとは思い切った行動に出た。
ぬらりひょんは常人が想像する以上に、物事を重大に受け止めてしまう男だ。
はたから見て大した事でない事変を、切羽詰まった状況だと判断したのだろう。
今思えば、風呂上りにあいつが俺に相談して来たのを、もっと親身になって聞いてやれば良かった。
反省しても、もう遅いんだよな。
いつでもこうだ、しくじる時は必ず後の祭りってやつだ。




