やっちゃん 26
病院で一番の金食い虫はホスピスで、利益率が悪いを通り越して下手すれば赤字になってしまう科だ。
経営母体が民間で利益優先の病院では、設置の予定はないのが普通だ。
当然の事、話題にものぼらない科だが、それに次ぎ赤字覚悟で設置するのがERになっている。
医師がじっくり考え込んでいたのでは、死体の山が出来上がってしまう。
検査機器一つとっても、速く正確を求められる結果として、初期投資は小さな病院を一件建てられるほどかかる。
ERの稼ぎだけでは決して回収できる額ではない。
患者はERで応急処置だけされて、落ち着いたら他の科に移動する。
その後に発生する他科の利益を食いつぶすERは、他科が個別に緊急対応するストレスを和らげるクッションの役を担っている。
はずなのだが、救急受け入れの病院が少ない地域では、受け入れを拒否しないERに急患が集中してしまう。
他の科に応援要請をしたのでは、かえって病院全体への過負荷状態を招きかねない。
そうなってしまっては本末転倒、今の厳しい経営状態でER設置をゴリ押ししたのでは、この病院に留まらず地域医療全体の質を低下させてしまう。
というのが野ざらしの言い分で、言わんとする事は分かるが、ほんの少し前まで推進派だった奴が、なんでまた急に反対派にまわったのかは依然不明のままだ。
どうしてもERの親方をやりたかったのに、俺が長になったものだから嫌気がさしたのか。
俺が邪魔ならハッキリ、自分がERの責任者をやりたいから、お前は副院長になれと言ってくれればいい。
俺だったら話に乗ってやってもいいのに、関係ない奴等に八つ当たりしているなら評判どうりの性悪だ。
ここへ来たばかりの頃から、一番長く親しく付き合っているのはハリネズミだ。
俺が好むと好まざるとに関わらず、あっちから部屋を訪ねて来てはつまらない話で勝手に盛り上がって、ただ酒をたらふく飲んで帰る。
大雑把というかおおらかというか身勝手な性分で、俺の知り合いだからとばかり、当たり前に金を払わず風呂にも入る。
最近では俺に用事がない時でも風呂にだけ入りに来る始末で、俺の部屋を素通りして帰ってしまう。
一度意見してやらなければならない。
その前に「奴からは風呂代を取ってくれ」と女将に言うと「それには及びません。逆に、御礼でこれからは湯上りに生ビールの一杯も御馳走します」と、指定席をこしらえている。
俺は墨を入れているから、他の客と一緒になった事がない。
だから、ハリネズミが他の客と一緒になった時に、どんな事をしているのか知らなかった。
奴は、いつも俺の部屋でしているようなつまらない世間話ではなく、講談調に作った話を風呂場で打って近所の評判になっていた。
今では噂を聞いた年寄り連中が、風呂の定期券を買ってハリネズミが来るのを心待ちにしている。
売り出し中の芸人並扱いだ。
始めは男湯で語っていた講談の席を、今ではどちらからも見られるように作ってあるのだとか……で、つまりは講談をしゃべくっている間中、ハリネズミは女湯までタダ見している。
どうせ老人会の旅行に似たり寄ったりの景色に違いないが、以前、俺が風呂に入る時は混浴状態だと言ったのがよほど羨ましかったとみえて、特別人前に出たがりでもない奴が、必至で話をこさえた努力のたまものだ。
ハリネズミは講談でも妖怪変化を扱った怪談話が得意で、話の中で妖の描写が誠に恐ろしげらしい。
大の男さえも、夜道の一人歩きをできないくらいに震え上がらせていた。
物の化に知り合いでもいるのか、人には見掛けによらない隠れた才能というのがあるものだ。
際立った遅咲きだがハリネズミは、創作話芸の世界で人より抜きん出た才能を発揮している。
それもこれも、ただ単純に女湯が見たいばかりの一念からだ。
俺だけが知っている真実を、公表できないのが辛い。
こんな裏があるのだから、やっている事は詐欺も同然だが、客が喜んで自分の裸を奴に見せている。
ここまでくると俺とは無関係の人間にした方が得策だ。
他人のふりをするしか手立てがない。
しかし、いかにシワシワの婆さんばかりでも女湯は女湯。
間違って若いのが視漢の被害に合わないと保証できるものでもない。
宿はハリネズミを俺の連れだと思っているし、このままズルズル女湯出入自由なんて事になってはいけない。
明日になったら病院で「女湯の方にはマジックミラーをつけるから、お前は鏡に映る自分に向って講釈しろ」とハリネズミに伝えると決めて床に入った。
翌日、ハリネズミを探して地下室に行ったら、奴の家からねらりひょんが顔を出した。
今日は明け番だから、暫くここで眠ってから帰宅するとかで、誰も考える事は一緒だと納得した。
すると、奥から他の科の先生も出て来る。
終いには赤チンまで出て来て、本当に寝ていただけなのかどうか怪しくなってきたが、そんな事よりハリネズミが出て来ない。
家でゴロついていた医者達に「家主はどこよ」聞いたら「たまたま宿での温泉講談を見ていた東京の講談師が、ハリネズミの話をえらく気に入ったとかで、高座にかける演目にしたいから、是非とも伝授願いたいって、招待されて東京に行ったきりだから暫くは帰ってこないわよ」
話しがどんとでかくなっている。
俺の部屋ではあくびが出る話ばかりしていたのに、どんな話だったのか、そんなにいい話なら一度くらいは聞いておけばよかったかと思うが、どうせ帰ってくればまた温泉で話は聞ける。
女湯のマジックミラーは女将も納得した事だし、釘を刺すのは後でもよかろうと、風呂場の高座にマジックミラーを設置した。
帰って来たハリネズミにその事を言い含めると、別段驚くでも機嫌を悪くするでもない。
いつものとうりに話を始めたから、俺も話を聞くのに残った。
すると、怪談話の途中で高座を暗転して、自分の顔を下から懐中電灯で照らした。
よくある舞台効果だが「キャー」と叫ぶ女湯の方を見て、ハリネズミがニャーっと笑った。
それがまた気持ち悪くて「キャー」と悲鳴を上げる。
たいしたものだと関心していたら、気がついた。
高座から女湯は見えないようにマジックマラーを設置したからとの口伝えに、近所の若い女も風呂での講談見物に来ていた。
いくらマジックミラーを貼ってあっても、高座が暗転すると普通のガラス張りと一緒だ。
奴からは女湯が丸見えになっている。
そこまでして女湯が見たいのか。
芸は身を助けると言うが、こんな奴の役に立ってほしくなかった。
やっと手に入れた小さな幸せを取り上げたら、ハリネズミはガッカリするだろうと思ったから、その場は何も言わずに後で俺の部屋に寄るよう伝言した。
飲みながら待っていた所へ赤チンがやって来て「迷惑は重々承知の上で御願いするんだから断っても良いけど、ハリネズミの事は大目に見てやってよー」と言ってきた。




