やっちゃん 22
改修工事が終わって、業務の高効率化が済んでいる。
病院は恐ろしく景気が良くなったと見えて、最近では夜勤の時に夜食代と言って院長が小遣いをくれる。
大抵は二三千円を正月のポチ袋に入れてくれるのだが、今日は人数分と言って四万ばかりむき出しで渡された。
人数分と言っても俺とタヌキ女だけだから、夕飯代に一人二万勘定かと驚いたら、タヌキ女の後にハリネズミと俺の部屋で寝ているべき不良警官がいた。
思わぬ収入で、折角だから帰りがけに海鮮料理屋に寄って「これから港屋で一宴会やるから、あんたも来いよ」と店主を誘った。
店のあがりは観光客の昼食と土産物が殆どで、午後の陽が傾くころには閉店するのが常だ。
楽そうに見えるが、翌日には夜明け前から船に乗って漁に出る。
見えない所での苦労の方が多い店で、店主が口癖に「営業中って看板は休憩時間の意味だ」と言う。
今日は平日で観光バスの予定もない。
「少し早目だけど店じまいだな」
店の奥からとっておきの酒を持ち出してきた。
それから、生け簀から伊勢海老と魚を網で適当にすくっている。
宿で金払っての宴会だから気使う事ねえとも思ったが、鯛がでかくて美味そうなので黙って見ていた。
五人ばかりの宴会では小宴会場でも広い。
カラオケマイクを持って、走りながら歌っているから酔いが回る。
それでも走るから疲れて来るでフラフラしている所に、学会で広島に行っている筈の赤チンが、タヌキ女を訊ねて来た。
「学会の会場に行ってみたけどー、イイ男がいなかったの。呆れたから帰って来ちゃった」
赤チンは学会がどんな寄合だか知っているんだろうか。
俺の仕分けでは、見境のない女の部類に入る奴。
どんな基準をもってして、いい男いけない男を見分けているんだ。
はじかれた男達が可哀想過ぎる。
病院でおきた事件の顛末を聞いて、おおよそここらで屯っているだろうと、宿にあたりを付けてきていた。
鼻が利くというべきか超能力者とするべきか、赤チンの勘は恐ろしい。
店主の顔を見るなり「明日も休みだから、海釣りに行こうよ」と言い出した。
詳しい事情は知らないが、周辺の若い男はほとんどいただいている赤チンの言う事に、店主が嫌と言える立場にないのは見当がつく。
店主がひきつった笑みを浮かべ「釣りに行くなら準備しとくから、今日は帰るわ」早めに引き上げて行った。
海釣りはタヌキ女と行ったきりで二度目だ。
店主が帰って、入れ代わりで宴会に参加した赤チンは、俺が船酔いするのを知っているくせに「先生は海人だから、船での釣りは慣れたものでしょうね」とひやかす。
そこへタヌキ女が、ガキの頃にかっぱらった船で酔って捕まった事まで話すものだから、俺はいい晒し者になって、恥ずかしいのと怒りで顔が赤くなるのが分かった。
明日の朝は夜明け前から船に乗るとあって、宴会はそこそこで御開きにした。
この辺りは、ちょいと沖に出れば大物も狙える潮がある。
釣り人は一年中やって来る地域だ。
釣り客相手に船を出す漁師は船宿を持っているから、客の殆どはそこに宿泊している。
温泉か海水浴か釣りかで、宿泊施設が使い分けられている。
温泉宿の真ん前に海岸があって、一声かければ釣り船も仕立てられる宿はここくらいのものなのに、宣伝下手で誰もそんな事を知らないで来る。
この宿に泊まる客の目的は温泉だから、夏でも水着はもってきていないし釣竿も持っていない。
宿の手配で格安の船釣りができると知った釣り好きが、予約を入れれば竿は船で用意するし早くに朝食も出してもらえる。
軽食も出がけに持たせてもらえる上に、帰りは通常のチェックアウトを過ぎてしまうから、昼食を宿に予約しておけば釣りを終えてから昼までは部屋が使える。
しかし、いくら良いサービスでも広告していないのだから利用するのは年に何組でもない。
俺が赴任したばかりで時間に余裕のあった頃、海岸に近い宿の駐車場でバーベキューをやっていたら、その時の写真をネットに流した奴がいて、そんなサービスがあるのかと問合せが随分とあった。
俺はてっきり女将から小言の一つも食らうかと覚悟したが、今では宿の常設サービスの一つになっている。
さすがに寒くなってからは利用する人もなかったが、暖かくなってきてからはボチボチ利用されている。
これも広告していない。
客を増やそうという努力が見受けられない宿なので「もっと派手に宣伝したらいいんじゃねえの」と女将に言ってやった事がある。
すると女将は「静な温泉を当てにして毎年来てくれる常連はんの邪魔はしたくないんどす。細々と、知った人だけのサービスにしています」と言う。
そうしてから「宣伝して来てくれるお客はんには、いずれ常連はんになってくれる方もいますけど、どんなに厳しい時だって、この宿を大切に思ってくれる常連はんの足が遠のくような、急場しのぎの派手な宣伝はしたらいけへんのどすよ」とも付け足した。
言いたい事は分からないでもないが、こっちがいくら大切にしたい常連客だと思っていても、当の客が宿の事をどう思っているかは分からない。
つまらない噂話が流れただけで、常宿を簡単に変えるのが客ってもので、それまで考えて客を大事にするならいいが、無暗に昔のやり方のままでいいと思い込んでいられたのでは、俺の居所が消え失せてしまう。
足湯もいいが、何とかならないだろうかと、空き室が目立つ宿の様子を見るに思ってはいるが、外れ者の俺には妙案が浮かばない。
深酒はしたが早くに寝たから、日の出前に待ち合わせの港につけた。
以前乗せてもらった時と港が違うので変だと思っていたら「今日はこの船で行くぞ」漁船ではなくクルーザーに乗せられた。
このへんの相場からすれば、新築の家が二・三軒建つだろう程に豪華な造りの船だ。
どこもかしこも不景気だってのに、随分と羽振りのいい御大臣がいたものだ。
「誰の持ち物だよ。傷つけたらヤバくねえか」訊ねると、「自分のだから、遠慮しなくていいよ」と店主が威張っている。
俺がタヌキ女と漁船に乗せてもらった時「こんなに釣れるんならよ、俺だったら医者なんぞさっさとやめて、海鮮居酒屋で稼ぐぜ」と冗談に言ったのを真に受けていた。
「自分は海鮮料理屋を続けながら、近くに漁船から直で買った魚を食わせる居酒屋を出したんだよ」
店に居たアルバイトをたぶらかして店長にしたら、これがまた真面目な男で店は大繁盛。
今では千葉だけではなく、近県にも店舗展開している居酒屋チェーンの社長様に成り上っていた。
僅か半年ばかりであれよあれよと伸びた会社で、勢い余ってドボンてな事になりはしないか、毎日ドキドキしていると話す。
豪華なクルーザーの上では、何を言われても本心からの言葉には聞こえない。
「どうせ人生なんてのは博打と一緒だからな。浮き沈みがあるのは当たり前だけど、お前の当たりは許せる範囲を越えてるぞ」
赤チンが「やはり新船はいいわねー、釣りは漁船よりクルーザーの方がいいわよねー」頻りに感激している。
ハリネズミが「僕は生れて初めてクルーザーというのに乘ったよ」柄にもなく船の中を隅々まで写真に納めている。
タヌキ女が「漁船とは雰囲気が違っていい気分だわー」と言う。
確かに何もかも整ったクルーザーは、乘っていて気分のいいものだ。
港を出て少し行くと「店主が船上パーティーだ」朝飯を用意してくれた。
昇り始めたばかりの陽が眩しい中での飲み食いは格別で、船酔いの心配などどこかに吹き飛んだものだ。
ただ、釣りには不向きな様子で、どこへ行っても呆れるばかりのベタ凪ぎにアタリがない。
定置網釣りなら釣れるのは分かっているが、それでは面白くない。




