6.さようなら
夕陽は去りつつあったが、広場は明るくまだまだ祭りを感じさせた。
臨時で点けられたであろうランプや松明が広場を照らしていた。
中央の大広場は、さきほどとはまったく違った顔を見せている。
あれほどあった露店はすべて片付き、大広場は噴水を中心にして広大な空間があった。
中央の噴水には楽隊が集まり、陽気でゆったりとした音楽を流している。
その周囲には、大勢の人間がそれぞれ思い思いに踊っている。
全員が違った動きをしているのに、その様子はどこか計算された無秩序を思わせ、全体として見ればなにかの群舞のように見えた。
そして、そのさらに周囲、立ち並ぶ店や家の前には大量の机と椅子が置かれて食事や酒を楽しみながらダンスをながめられるようになっていた。
レオは、
「さあ! こっちへ!」
そう言って、ソフィーを広場の中央近くまで招き入れた。
ふたりは、手を取り合って踊った。
レオは、ダンスが上手かった。
ソフィーの技量を正確に把握し、その上でリードするような動き。
踊り全体が完全にレオにコントロールされているようであったが、ソフィーにはそれが心地良かった。
踊るレオは楽しげだった。
笑顔を浮かべ、目はキラキラと輝き、ソフィーをじっと見つめてくる。
噴水を周るようにステップを踏み、ふたりは踊る。
踊りながら、ソフィーはレオについて思う。
レオも、今日を最後の一日として抜け出して来たと言っていた。
悩んでいるのは、自分だけではないのだと思う。
周囲にはたくさんの人間がいる。
レオだけではなく、みんな、みんなそうなのだろう。
みんななにかしらを抱えながら生きているのだ。
ソフィーの場合は規模がすこし大きいだけで、望まぬ結婚というのもどこにでもある話なのだ。
ソフィーとレオは踊る。お互いを見つめ合って。
周囲で踊る人々は、皆楽しそうにしている。
しかし、その裏側の日常では、誰もが人生を好きに生きているわけではないのだ。
だから、こうして人は息抜きをするのだろう。
日常を忘れて非日常へ。
レオも、そうだったのだろう。
ソフィーもそうだ。
息抜きは、出来たと思う。
レオのおかげで。
ソフィーはレオにリードされるのを楽しんだ。
広大な広場の中心で、群舞の一部となって踊った。
星が瞬きはじめた夜空の元で、淡い炎の光に照らされて、陽気な音楽に合わせて踊った。
それは、間違いなく非日常であった。
ソフィーは、なにかの幻想の中にいるような気がした。
自分の体が自分のものではないかのような心地で踊った。
最後には、レオの笑顔だけを見ていた。
***
ダンスが終わり、あたりはもうすっかり夜だった。
「最後に案内したい場所があるんだ」
レオは、そう言った。
ソフィーは、それがどこかも聞かずにレオに着いていった。
別れが近いのは予感していた。
それは西地区の、ソフィーがいた小城にほど近い場所だった。
そこは、西地区の坂の近くの階段の上だった。
階段を上がった先は柵があって、階段の下の開けた空間が見下ろせるようになっていた。
月明かりと家々の明かりのおかげで、夜とは思えないほど良く見えた。
家々の中心にある開けた空間にはなにもなく、たまに人が通るだけで、中央広場の人の群れと比べると、同じ街の中とはとても思えなかった。
レオが柵に手をかけて止まったので、ソフィーも同じように柵にもたれかかった。
「ここはなんなの?」
見たところ、なにもない。
すこし見晴らしはいいかもしれないが、それでもわざわざ案内するところとは思えなかった。
「ここは、僕にとって特別な場所なんだ」
レオの声は、ゆっくりとして、優しげだった。
「こどもの頃、今日みたいにうまいことやって抜け出したことがあったんだ。こどもの足で一日中街中を巡ったんだ。広場も見たし、公園にも行った。それからだんだん夜になって、僕は迷ってしまったんだ。そうして、ここにたどり着いた」
ソフィーがレオの顔を見ると、その顔はどこか遠くを見ていて、目の前の現在は見ていないような瞳をしていた。
「その時は今みたいにお祭りでもなんでもなかったから、ここにはまったく人がいなくてね。ここから下を見下ろして、誰もいない場所を目にして、なんだか不思議な感動を覚えたよ。けど、そのうちなんだか寂しくなってきてね。急にこの世界には自分しかいないような気分になって、二度と家に帰れない気がして、こどもだった僕は泣き出してしまったんだ」
レオは、昔の恥ずかしい失敗を語る人間特有の饒舌な口調で言った。
「そのうち家のものが探して連れ帰ってくれたんだけどね。でも、初めての外出で一番印象的だったのはここなんだ」
「なぜそんな場所を案内したの?」
「君に、僕を覚えていてほしいから」
どこか遠くを見ていたレオの視線は、今ははっきりとソフィーを見ていた。
「一目惚れ、だったんだと思う。最初に君を見た時から、ずっと惹かれてた」
レオはまるで懺悔のようにひとり続ける。
「だから案内なんてかってでたんだ。手持ちもなくて、恥をかくのはわかっていたけど、それでも一緒にいたいって僕の中のなにかが言っていたんだ」
ソフィーは嬉しくもあり、悲しくもあった。
好意を伝えられて嫌がる人間はいないと思う。それも、自分が好ましいと思っていた人間から言われればなおさらに。
それでも、それがこの先なにも実を結ぶことがない想いだと考えると、どうしようもないほど悲しかった。
「実のところ、今日はいっぱい嘘をついていたんだ。君と一緒にいるために」
ソフィーはそれを聞いて、笑った。
「実は私も、今日はいっぱい嘘をついてたわ」
レオは笑いながら言う。
「おいおい酷いな。似たもの同士ってわけか」
「お互い様ってことね」
しばしふたりでくすくすと笑いあったあと、レオは真面目な顔に戻った。
「でも、今日が最後でもう会えないだろうっていうのは本当なんだ。だから、なにか思い出を分かち合いたかった」
「それでここを案内してくれたのね」
「ああ」
レオの瞳はまっすぐで、どこか悲しみの色を帯びているように見えた。
「もうひとつ、思い出をもらってもいいかい?」
そういうレオは、どこか恥ずかしそうだった。
ソフィーは、レオがなにを求めているのかわかったと思う。
「いいわ」
ふたりは、口づけを交わした。
それは、どこか遠慮がちで、お互いが恐れているような、そんな雰囲気があった。
それからふたりは抱きしめ合い、別れは唐突にやってきた。
レオが、ソフィーから手を離した。
なにもかもが、現実とは思えなかった。
「それじゃあ、僕はもう行かなくちゃ」
レオの表情には、悲壮とも言える決意が宿っているのがわかった。
呼び止めても無駄だと思ったし、呼び止めたとしても、ソフィーにはなにもできないとわかっていた。
ソフィー、も覚悟を決める必要があった。それが今だとわかった。
これからの、自分の人生への覚悟を込めるように、ソフィーはレオへと言った。
「さようなら」
レオは、今日一日で見せた陽気な顔からは想像できないような悲しい顔をして言った。
「さようなら。今日のことは、生涯忘れないと思う」
レオは踵を返して、去っていた。
ソフィーはレオをただ見送った。
レオは一度も振り返らなかった。
ソフィーはレオの姿が見えなくなっても、いつまでも、いつまでもレオの去った方を見つめていた。