4.運命の相手
ソフィーとレオは公園を歩いていた。
イヴリースの南東に位置する、とても大きな公園だ。
イヴリースにあるものはなにもかもが大きく、ソフィーは別の種族の街であるような錯覚を覚えてしまう。
公園の中心には大きな池があり、その周囲は美しい芝生で覆われている。中にいると、そこが城壁の中だとはとても思えないほどだ。
街との区切り部分は垣根と木々で隠されていて、ここからでは街の様子はまったく見えず、どこか別の場所に迷い込んでしまったような印象を受ける。
本当に美しい公園だった。
都市の中にいながら、緑の空気が楽しめる。こんな場所があるなんてさすが大国イヴリースだとソフィーは思った。
レオは、噴水の次は絶対にここだと案内したのだ。
たしかにこの光景は一見の価値がある。
城壁の中に湖としか見えない大きさの池があるなんて大陸広しと言えどイヴリースだけだろう。
地面も芝生の踏み心地が良く歩きやすかった。
しかし、ソフィーはちょっと疲れ始めていた。
それもそのはず、朝からソフィーはずっと歩き通しだ。
山歩きの魔法と言えど、元々が貧弱なソフィーの足を絶対無敵にするというわけではなかった。
疲労は着実に蓄積され、ソフィーは足が辛くなり始めていた。
「ちょっと休むかい?」
まるでそれを察したように、レオが声をかけてきた。
もしかしたら、気をつかってくれたのかもしれない。
ソフィーはレオと歩調を合わせているつもりで歩いていたが、もしかしたらレオ側が合わせてくれていて、ソフィーの歩みが遅くなっているのに気付いていた可能性はある。
なんにせよ、そういうつもりならば甘えてしまおうと思った。
「ええ、ちょっと休みたいわ」
「じゃあそこのベンチで休もうか」
公園には池を囲むように等間隔でベンチが配置され、どこでも池を臨みながら休憩できるようだった。
ソフィーはベンチに座ってほっと一息つく。ようやく休ませてもらった足が喜んでいるような気すらする。
「ごめん、気付くのが遅れて」
レオは謝罪の言葉を述べた。やはりソフィーの歩みが遅くなっていることに気付いていたらしい。
「いいの、私がちょっと意地を張っちゃっただけだから」
それは本当だった。休ませて、と言ったらなんだか弱みを見せるような気がしていたのだ。
今思うと意味不明で下らない意地だった。
ベンチに座って見る池は雄大で、本当に湖にしか見えなかった。
もしかしたら、公園の入り口がゲートになっていて、どこか別の場所に転移させられたのではないかと疑ってしまうほどだ。
白鳥やアヒル、カモなど様々な水鳥が池に浮かんでいたし、鳥以外にも手漕ぎのボートがいくつもいくつも浮かんでいた。
乗っているのは子供連れの親子から恋人同士まで様々であるようだった。
公園、というだけあって、こどもが多かった。
たしかに、これだけ整った芝生の上で遊べるならば、街の石畳の上で遊ぶのは馬鹿らしいのかもしれない。
ここに来るまでに走り回るこどもと何度も遭遇したし、今も近くにこどもがいた。
ベンチの近くにいたふたりのこどもが、片手を握ってお互いの拳をそっとぶつけていた。
パチリ! というなにかが弾けるような音がしてこどもたちは笑うのだ。
それを、レオがなにか物珍しいものでも見るような目で見ている。
「どうしたの?」
「いや、なにをやっているのかな、と思って」
「え?」
「ほら、また」
レオがふたりのこどもを指差す。こどもたちは額に握った拳をしばらくつけてから、お互いの拳を軽く接触させる。
すると再びパチリ! となにかが弾けるような音が響いた。
「ね? 不思議だろう?」
「えーと、それは本気で言ってるの?」
ソフィーにはレオがパチを知らないなど、にわかに信じられなかったのだ。
「もちろんさ、リリィは知ってるの?」
「それこそもちろんよ」
正式名称を『エタージ接触反応』という。
額に拳を当てて意識を集中させることで拳に微弱な魔力を宿し、それをお互いで接触させることによって反応を起こすのだ。
ただ、これは魔術を学問として学んだソフィーだからわかることで、普通のこどもには『パチ』と言う呼び名の方がよほど通りがいい。
これは本当に微弱な魔力でさえあれば反応が起こるので、魔法を魔法と認識していないような人間でもできてしまうのだ。
だから、こどもの頃には誰しもたいていはこれで遊んだことがある。
拳と拳を接触させて、静電気のような現象が任意で起こせるのだから面白いに決まっていた。
「『パチ』って聞いたことない?」
「いや、ぜんぜんないな。なんだいそれは?」
本当に言っているのかコイツは。
普通の人生を送っていれば一度はやったことがあるはずだ。もし一度もその機会に恵まれなかったとしたら、相当な確率をすり抜けたに違いない。
それともレオは普通ではない人生を送っていたのか。未開の蛮族とか、それとも王族とか、とにかくとんでもなく浮世離れをした生活をしていたかだ。
ソフィーはレオに疑いの目を向けるが、レオの方はと言えば、一点の曇りもない瞳でソフィーを見つめているだけだ。
その瞳でこちらを見られると、ソフィーはなんだか自分が悪いことをしているような気分になってしまう。
「魔法の初歩の初歩みたいな遊び。額に拳を当てて意識を集中して、それからお互いで拳を軽く当てると静電気みたいな反応が起こるの。本当にやったことないの?」
「ないな。それって僕でもできる?」
「できるわよ、こどもだってできるんだから」
「じゃあやってみていいかな?」
レオの表情は、どこかこどものような好奇心に満ちていた。
「しょうがないわね」
ソフィーは小さなため息をついてから額に右拳を当てて意識を集中した。
レオも、ソフィーを真似るように同じ動きをした。
そして、ベンチの左に座っているソフィーが右拳を、右に座っているレオが左拳を出して、お互いの拳が軽く触れ合った。
なにも、起こらなかった。
うそ。
ソフィーは驚愕に目を見開いた。
「なんだ、なにも起こらないじゃないか。 さてはリリィ、ぼくのことを騙したね?」
レオは、いたずらを見つけた親のような顔をして笑っている。
ソフィーとしてはそんなつもりはなかったし、レオの手順が間違っているようには見えなかった。
「まあいいか、そろそろ休憩はいいかい? ボートに乗ろうと思うんだ」
そう言って、レオは立ち上がった。
ソフィーもベンチから立ち上がるが、心ここにあらずといった様子であった。
なぜなら、パチで反応が起こらなかったからである。
パチには、迷信じみた伝説があるのだ。
お互いが拳を接触させてなんの反応もなかったら、同性でなら無二の親友になれるし、異性ならそれは運命の相手であると。
魔力での反応である以上、お互いの波長が極めて似ている場合、そういったことが起こり得るのは理屈としてはわかる。
たぶん、その極めて稀が起こってしまったのだろう。
それでも、ソフィーはその迷信を意識せずにはいられなかった。
そんなことが起こり得るのは、確率として納得できないものでもあるからだ。
そんなことが、本当にあるのだろうか、と思う。
運命の相手とたまたま抜け出した一日で遭遇するなんてことが。
あるいは、運命の相手だからこそ、こんな数奇な出会い方をしたのだろうか。
もしそうだとしたら、もっとレオがどんな人間なのか知りたいと思った。
レオが歩き出し、ソフィーはそれについていく。
レオは振り向きこそしないが、背中でソフィーを意識し、ソフィーが並ぶように足並みを緩くしていた。
いや。
ソフィーそこまで考えて、馬鹿らしい考えだと思い直した。
たまたまに決まっている。魔力学的に考えて理屈としては起こり得るのだから、もちろんそれが起こったのだ。
低確率の事象に遭遇する人間は絶対にいる。今回はたまたまそれがソフィーとレオだっただけの話だ。
それに、もし運命の相手と出会ったとしても、それはもう今更の話だ。
なにせ、ソフィーは明日、顔も性格も知らない人間と、結婚するのだから。
***
ボートの借り場までレオは悠々と進んでいたが、そこまで行ってからソフィーを振り返り、すこし困ったような笑顔を向けてくる。
「どうしたの?」
「いや、その、お金がね……」
そう言えばそうだったとソフィーは思い出す。
レオは本当に無一文なのだろうか。
「いいわよ、案内してもらってるんだし、今日はわたしがもつから」
ボートは、乗る時が一番緊張した。
水に浮いている木の船に足を下ろす、というのは想像以上に不安なものだし、足をつけた時の頼りない感じも怖かった。
が、いったん乗ってしまえば不安はなく、水上の遊覧はなかなかに快適だった。
レオが漕いでくれている。何度も乗っている、というわけではないのだろう。特別熟練した様子ではないが、初めてというわけでもない、そんな漕ぎ方をしていた。
ボートは、円形の池の外周をなぞるように進む。
水の上は、陸地よりも幾分涼しいように感じた。水の匂いに風が気持ち良い。
ソフィーは陸地から手を振るこどもに笑顔で手を振り返す。
ボートの上からは池に浮かぶ水鳥がよく見えた。
池にはカモが多い。水鳥の方もボートに慣れているのか、人間など恐れるに足らずといった堂々さでまったく逃げなかった。
中にはソフィーが乗っているボートを追いかけてくるカモもいて、なんだかかわいかった。
「ボートの旅はどうですか? お姫様」
「快適よ、おかげさまで」
レオはなかなか体力があるようで、しばらく漕いでいても疲れた様子は見せていなかった。
それどころか楽しそうにしているように見えた。体を動かすのが好きなのかもしれない。
ソフィーはふと、思った。
本当ならばイヴリースの小城で待機のはずが、池の上で、しかも素性のわからぬ男性とふたりでいるなんてとんでもないことだ。
それがどうにもおかしくて、ソフィーは微笑んだ。
「どうしたの?」
「いえ、楽しいなって」
ボートはゆったりとしたペースで池を進む。
レオが方向を転換して、外周から中央へと切り込むような軌道へと変わる。
これもレオのおかげかもしれない、とソフィーは思う。
もし自分ひとりで街をうろついていたらどうなっていただろう。
すくなくとも、ボートには乗っていなかったはずだ。
中央広場までいって一通り見世物を見たら、そのあとはやることがなくなって途方に暮れてしまったかもしれない。
ボートを漕ぐレオに視線を移す。
ハンサム、だと思う。
見た目だけで言えば悪い印象を持つ人間は皆無だろう。
人さまの料理を勝手に食べてしまって、しかも無一文と来たら怪しさは爆発だったが、こうして接している分にはただの好青年にしか見えない。
それどころか、所作にはどこか気品まで感じられる気がしていた。実は結構育ちがいいのかもしれない。
いったい何者なのだろう、とソフィーは思った。
「ねえ、レオってなにをしてる人なの?」
「なにをって?」
「仕事とか、家とか」
「あー」
レオはすこし間の抜けた感じのする声をあげてから、
「僕の仕事は宣伝とかそういうのかな? うちは代々そういう家系なんだ」
「宣伝? さっき広場にいた客寄せみたいな?」
「まあ似たようなもんかもね。ちょっと違うけど」
「ふーん」
ちっとも想像がつかなかった。
レオが走り回って客寄せをしている姿など想像できない。
池の中心まで来て、レオがボートを漕ぐのをやめた。
池の中心から見ると池の広大さがよくわかる。陸地はそれなりに遠く、もしボートが転覆でもしたら陸地まで行くのは大変なのではと考えてしまう。
周りにもボートがいくつかあるのに、不思議とソフィーとレオだけの空間であるような気がした。
「今日は天気が良くて気持ちいいね」
空から照りつける日差しが暖かい。
しばらくは、ボートが浮かぶままに任せて、のんびりとしていた。
お互いが特に喋るでもなく、ただふたりでいるだけの時間を楽しんだ。
穏やかな時が流れているのを感じる。
朝、秘密で抜け出したことも、明日からソフィーの人生が結婚へと動き出すことも、とても信じられないほどだった。
「そろそろ行くかい?」
レオがそう言ってオールを再び手にしたところで、ソフィーはいいことを思いついた。
「ねえ、私に漕がせてくれない?」
「え? でもこれって結構力がいるよ?」
「やってみたいの、せっかくだから」
ボートの上で膝立ちになって、レオの方へと行き、レオの右側に入ってすれ違おうとしたところで、ソフィーはバランスを崩した。
驚きの声も出なかった。ボートが右に傾いだことで、それを怖がり、傾きを元に戻そうとして妙な動きをしたためだろう。
絶望的なバランスから倒れるのはもはや避けられない事態であり、ソフィーはボートから落ちないことに必死で、真正面に倒れた。
真正面には、もちろんレオがいた。
ソフィーはレオに覆いかぶさるような形で倒れ込んだ。
それは、傍から見ればどう考えても抱き合っているようにしか見えない。
「大丈夫かい?」
レオは落ち着いた声で案じてくれたが、どう考えても大丈夫ではなかった。
恥ずかしすぎた。
恥ずかしすぎてすぐにでも離れたいのだが、ボートという不安定な場である以上、急激に体を動かすのは恐ろしく、ソフィーは混乱の極みに達した。
「ご、ごめんなさい」
レオの助けを借りて体勢を立て直し、今度こそお互いの位置を入れ替えて、ソフィーはオールを握った。
ソフィーはゆっくりと漕ぎ出す。
運命の相手、という言葉が思い出される。
ソフィーを支えてくれたレオの身体は、思いのほか力強かった。
ソフィーは上の空でオールを漕ぎ続ける。
どうやって陸地に戻ったか、なにも思い出せなかった。