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鏡で自分を眺めていた郁は、そのまま溜め息をついた。特に郁は自分の顔が良いとは思わなかった。と、いっても母親と父親から生まれた子供であるので、二人の特徴は顔に表れていた。人によれば、母親似、父親似であるとバラバラである。だが、郁はその顔が好きではあった。そして、今はそのようなために顔を見ている訳ではないのだった。
玄関のインターフォンが鳴る音がして、インターフォンを確認した。そこには家に良く訪れる配達屋の服装を着ている男性が、荷物を抱えていた。奥にその人が乗ってきたと思われる自転車が見えた。
郁は返事をした。
「はい」
すると、男性が軽く帽子を下ろして、お辞儀をした。
「伊佐さん。お荷物です」
インターフォンの「終了」ボタンを押すと、郁は玄関まで急いだ。重い荷物の場合に、長い間待たせるのは悪い気がするのだった。窓辺の印鑑を手に取ると、足元にあるスリッパを履いた。
そして、郁はその男性のために扉を開けた。
「ここに印鑑をお願いします」
と、男性が伝票を差し出してきた。
郁は軽く頷きながら、その伝票に印鑑を押した。最近はサインでも済ませるが、印鑑の方が楽だった。しっかり、宛先を確認すると伊佐××様へ。つまり、郁の父親が買った何かのようだった。
男性から荷物を渡された郁は、それを両手で受け取った。大きいこともあり、両手で持たなければ落としそうだからだった。そして、そのまま一歩下がろうとした時に、目前の男性の腕が自分の方に動いた。鋭い痛みを感じて、郁は顔を上げた。
そこには先程と同じ配達屋の男性がいた。だが、その手にはナイフが握られていた。郁は痛みよりも、状況が理解出来なかった。何故、自分が狙われるかも。
「おっと、何故と言う顔をしていますね」
と、その男性を帽子を取りながら、笑みを浮かべた。
それは郁が一番見たくない嫌いな顔だった。ただの欲に溢れた、人らしくない気持ち悪い顔であった。
男性はそのままナイフを舌で舐めそうな顔をした。
「理由は簡単ですよ。ただ招待状を届けに来たのです」
と、男性が懐から別の封筒を取り出し、郁の側に置いた。
縦横の封筒には短く書かれていた。伊佐郁様へ、と。つまり、今回のそれは先程のとは違い、正真正銘郁宛ての手紙だった。だが、今この状況で郁はその手紙の中を見ることは出来なかった。そして、出来そうにもなかった。郁は痛みに耐えながらも、何とか男性と目を合わせた。
男性は満足そうに見た。
「ですが、近年招待状を沢山送るとしても、人数が多いと気づきました。なので、使える人かどうかを勝手に判断することにしたのです。突然のことに驚いたかもしれませんが、これが我々の挨拶と言うものです。どうか、世界のために死んで下さい。もし……生きているのなら、また会いましょう。しかし、今の所はその可能性が低いようです」
「まっ…」
郁は去ろうとする男性に何かを言い返そうとした。だが、それをするさえの力は残っていなかった。空に突き出して手は何も掴むことが出来ないまま、垂れた。男性は郁を最後に一瞥すると、自ら扉を閉めた。
何も出来すに郁はその扉を眺めていた。遠くで男性が階段を降りていく音が聞こえてきた。それは虚しく、ただ遠ざかっていくだけだった。郁は痛みと戦いながらも、意識が飛ばないように努めた。もうあの死の恐怖を一日に何度も、経験はしたくなかった。
だが、今は気持ち良さそうな眠気が襲ってきた。このまま目を閉じれば、痛みも感じることなく静かに眠ることが出来そうだった。だが、それは逆にそのまま死に絶えることを意味していた。頭で理解しているとしても、郁は何も抵抗することは出来なかった。
強烈な眠りに誘われるように、郁は目を閉じてしまった。だが、痛みが消える様子はなかった。このようなことが起きるのなら、あのインターフォンに答えるべきではないのだった。答えていなければ、また殺される事態には陥っていなかった。そして、そもそもまだ何で殺されるのかさえ分からなかった。そこまで殺められる理由も分からず、殺されるのは嫌だった。このような理不尽な終わり方を郁は望んでいなかった。
だが、過ぎたことを悔やんでも何かが変わる訳ではなかった。もう後悔さえ出来ない地点に郁は来ていた。後は自分の仮説が正しかったかどうかを、身を持って知ることだけが残っていた。その結果を見たくないとしても、もう郁はいつの間にか意識を手放していた。何かを先に考える前に。ふと夢の世界に静かに入るように。
*
郁ははっと目を開けた。もう死から目覚めた感覚を確かめる必要もなかった。すぐに体がどのように動かすべきかを理解していた。そして、視界には先程と同じ場所にいた。ただ違う点を言うとすれば、郁はどこにも血を流している様子がなかった。ほっと安心していると、ずきりとまた頭痛がした。そして、フラッシュバックをするように郁はすぐに自分が死んだ直前のことが脳内で再生された。
ナイフを深く刺される自分。痛くて冷たい感覚。気持ち悪い笑みを浮かべる男性。突き落とされるように扉を閉められる。
その一つ一つの光景がより鮮明に思い出された。郁が決して思い出したくないとしても、脳が勝手に再生する。そして、その時の痛みと感情も追体験される。吐き気が伴った郁はその場でしゃがみ込んだ。このようなことが起きるから、もう死にたくないのだった。そして、すぐに気づいた。最初の死の時より、死んだ時の状況がより鮮明に思い出されていた。はっきりと思い出されることは郁にとってただの恐怖でしかなかった。死ぬのなら、本当に一回だけで良いのだった。もう誰にも殺されたくないと必死で思った。
だが、すぐに男性が渡された物を思い出した。急いで視線を動かすと、そこにはちゃんと郁宛ての封筒があった。気持ち悪い中、郁は飛びつくようにその封筒を手にとった。郁が現在使える情報はそれぐらいしかなかった。それ以外に頼りに出来る人も今はいなかった。何よりも早く、この死のループを終わらせる必要があった。それが出来るのなら、今は他はどうでも良かった。そう思えるほど、死を郁は嫌った。今の所は死んで、蘇れるとしても。
郁がその封筒を開けると、手紙が書かれていた。
伊佐郁様へ。
この度は、我々の一員に選ばれたことを光栄に思います。ようこそ、我々の世界。アナザー・ワールドへ。この手紙を手に取ったということは、あの者の試験をきっとパスした人物であるとこちらは判断します。
近年は移住者も増えていることもあり、実力主義で全てを決めることにしました。現世での地位や経済的状況は一切考慮せず、ただその者の実力を確かめるために行いました。なので、ここで倒れた者達には何もいうことはありません。貴方達はこの世界に足を踏み入れる資格がなかったのです。その身を犠牲に。いや、我々の世界のために死んでくれて、誠にありがとうございます。ただの無意味な物と化していたかもしれないそれが、最後にはきっと何かの役に立ったかもしれません。
再度、お知らせします。ようこそ、裏の世界。アナザー・ワールドへ。我々は貴方を歓迎します。きっと最初の挨拶は心から喜んでくれたと思います。
尚、この世界は楽園です。法のない、無法地帯へとようこそ。ここでは誰が死のうと誰も気にしません。ここでは貴方のいう現世は一切関係がないのです。なので、誰もが望めば英雄にも悪役にもなれます。もし、巻き添えにより死亡したとしても、誰も責任を取ることはありません。ご了承下さい。この手紙を読んで気が良くなるのなら、どうぞ。ですが、それで何かが変わることはないと、先にお伝えします。
門は、十一時十一分に開きます。それより遅くもそれより早くになっても開きます。貴方がこの手紙を開けば、そこが門となります。なので、決して失ことがないようにして下さい。
では、また貴方と会えることをお待ちしています。
その手紙を読み終わると、郁は更に何かを言うことなくそのまま手紙を封筒に仕舞った。何かをしようとしても、最初に溜め息をした。本当は色々叫びたい思いだった。だが、実際に口を開けばいつまでも叫び続けそうだった。溜め息をすれば多少は気分がましになった。大きく何かが変わった訳ではないが何もしないよりはよくなった。
郁は立ち上がると、何よりもお腹が減ったことに気づいた。腹が減っては戦が出来ぬ。だから、その考えに則り、郁は何かを摘むことにした。ついついストレスで普段より食べ過ぎそうだったが、カロリーも気をつけてストレス解消を行うことにした。このような時に読書などすれば、更にストレスが増えそうだった。ストレスも治らないまま、本のページが正常に捲れなくて、イライラする。そのような未来がもうはっきりと見えていた。
リビングに行くと郁は置いてあるお菓子を適当に眺めた。だが、特にこれと言って良い物もなかった。普段なら悩まずにこれと言えるのに、今日は違った。何もかもが違った。少し悩んでから、郁はそのまま炊飯器に残っていた白米を小皿に注いで食べることにした。
電子レンジで温めた米を取り出すと、蒸気と共に美味しそうな白米の匂いがした。ふりかけも何もいらず、そのままで食べるのが一番好きだった。郁は、近くの木の箸を手に取ると急いで椅子に座った。そして、一口を頬張ると口全体に均一な白米の匂いが広がった。唯一それだけが、今郁がリラックスするために使えそうだった。そして、一皿分あるはずだった白米は、瞬く間に郁の胃袋に消えた。
本来なら食欲などもないはずだった。だが、今の郁はどのような普段していることをしたくなった。それだけでも、自分がその世界に存在していることを理解することが出来そうだった。
そして、郁は最近聞き始めた曲をかけた。最近のガチャガチャしている曲よりも、少し古い曲が好きだった。だからといって、他の曲を聞かない訳ではないのだった。ただ親からはよく、歳を誤魔化している、と言われることが多い。そういう時に郁は思うのだった。何を聞こうと人には関係ないのではないか、と。親が言いたいことを郁は理解していた。