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世界のために死んでくれ  作者: 影冬樹
プロローグ 彼らは世界のために死んでくれと言う。
2/5

 郁は水泳で溺れた時のような状況に陥っていた。いや、実際には泳げないので溺れることも実際には分からなかった。ただその苦しみはそれと似ているように感じた。郁はパニックの状況から必死に息をすると、自分が存在することに気づいた。それは目覚めた時と似ている気がした。だが、今回は普段よりも自分のことを認めるのが大変に感じた。自分がそこに存在するはずなのに、その存在を正確に掴めることが出来ない。必死に体を動かしていると、肉体の感覚を取り戻した。ふと視界が明らかになった。

 知らぬ間に校庭で寝転がっていた。そして、郁は何故かそこに取り残されていた。頭痛がしてから、頭を押さえると郁はふと屋上を見上げた。

 ――あそこから、落ちた。

 つまり、一度自分が死んだことを郁はすぐに気づいた。だが、自分はここに生きていた。その訳が分からない矛盾に、郁は腹を押さえた。言葉で表せれないような吐き気が伴っていた。自分が生きているのか、死んでいるのかが分からないからだった。普通に考えれば生きているはずがないのだった。だが、視野が明らかで日光を感じる。そして、しっかりと陰も見えていた。なら、郁は自分のことが幽霊であると判断することは出来なかった。

 立ち上がろうと郁がすると、体がふらりと倒れそうになった。知らない内によほどの体力を消費していた。そして、もし生き返ったのなら使用した体力は計り知れないのだった。だが、郁の理性がそれを否定した。そのようなことがある訳がないのだった。なら、一番納得出来るのは郁自身が初めからそこにいると考えることだった。もう自分が死んだかどうかを確かめることもしたくはなかった。

「おい、伊佐。大丈夫か?」

 と、郁が顔を上げると見覚えのある担任が自分の方に向かっていた。

 だが、その表情は空から落ちてきた誰かを心配しているほどの表情ではなかった。郁はふと違和感を感じた。

 担任が郁に追いつくと、軽く息の整えた。そして、まだしゃがみ気味の郁に手を差し伸べた。

「本当に大丈夫か? 保健室にでも連れていくぞ?」

 郁は何度も保健室にはお世話になっていたので、今日はよかった。それよりも聞かないといけないことがあった。

「先生。僕は何をしていましたか?」

 担任は笑みを浮かべた。郁の質問の意図をよく理解出来ていないようだった。

「何をって…屋上に行っていたはずの伊佐が、突然校庭で倒れていたから驚いただけだ。お前がそんなに動くのが早いとは思わなかったが、本当に大丈夫か?」

 と、担任が郁の顔を覗いた。

 そこには顔色を真っ青にしている、郁がいた。

 郁は自分が死んだことを理解していた。だが、それが他の誰にも目撃されてはいないのだった。なら、郁が経験したはずのことは何だったのか? それを目前の担任は答えてはくれなさそうだった。

 だが、一つだけ郁は分かった。もう今日は誰とも顔を合わせたくはなかった。自分でも訳が分からない。なら、もう誰かと顔を合わせるだけで更に吐き気が増しそうだった。

 郁は何とか口を開いた。出てきた言葉は何ともひ弱く、今にも壊れそうだった。

「だ、大丈夫です。それより、今日は早退してもいいですか? 体調が悪いので…」

 担任は頷いた。

「いいぞ、分かった。なら、気をつけて帰るのだぞ」

 郁は軽く頷いた。もう今の郁には先程の経験より気をつけることは何もなかった。ただ動く屍のように、表情のない顔で郁はそろそろと歩き出した。いつになっても体調が良くなる様子はなかった。そして、今日はいい夢も見れそうになかった。見るとしたら、大っ嫌いなホラーのようだった。

 そのまま図書館によると郁は荷物を纏めて、帰路についた。特に誰とも話をすることはなかった。今はしたくもなかったので、それでよかった。


 *


 家について手を洗った郁はそのまま気分を変えるためにも、顔を洗った。タオルでふいた顔を見ると、そこには誰であるか分からない顔があった。郁は自分がここまでも何ともいえない表情をするとは思わなかった。絶望とまではいかないが、明らかに体調の悪そうな顔をしていた。

 郁は片目を閉じた。鏡も同じように片目を閉じた。上を見た。すると、鏡も同じように上を見た。目を細めると、鏡も同じように目を細める。特に表情には何の問題もにないようだった。顔色が悪いのは、気持ちの問題のようだった。

 頬を抓ってみた。普通に痛かった。それだけでも、郁は痛みに弱かった。だから、注射など持っての他だった。今の歳になっても、注射をしないといけない。そして、怪我をすれば採血がある。それらは考えるだけで嫌だった。

 普通に痛みは感じる。なら、ここが夢の世界ではないのだった。この痛みが二次体験でない限りは。だが、郁はあの時何の痛みも感じなかった。しかし、状況からは死んだはずだった。何を死の定義とするかは分からなかったが、三階立ての校舎からそのまま校庭に落下すれば、死亡は確実だと感じた。まして、そこに何かクッションでもない限りは。そして、目が覚めれば校庭にいた。

 屋上から校庭から移動した理由を、落下以外では説明が出来ない。しかし、郁は自分自身が屋上から落ちた様子のことを想像した。そのような状況から生き返った。

 本当に生き返れるかどうかを確認するつもりもなかった。二度とあのような経験はしたくもなかった。もし、そのようなことが出来るとしても、それで誰かが幸せになることもない。もうあのただならぬ恐怖を感じたくなかった。それに仮説が間違っていれば、郁は本当に死ぬことになる。そのような冒険を現実世界で求めたくはしていなかった。ただ静かに生きる。それが郁が望むものだった。

 だけど、このようなことほど叶うことはない、と郁はすぐに知ることになった。世界は何とも残酷で不公平で、郁にとって納得が出来ない世界だった。誰の犠牲も気にせず、自分のためなら好きなように生きる。それは郁の想像よりも遥かに、冷たい世界だった。

 そして、郁はそこに巻き込まれた普通で臆病な高校生だった。何も世界を知らない郁は、逆に世界から世界について見せられるようになった。世界は郁を逃げることを許さない。郁がもうその世界の玄関先に足を踏み入れたからだった。

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