現実と幻影の狭間で
「もし、本当にオレが考えていることが原因なら……、原因は『発情期』だ」
オレがそう口にすると……。
「は、『発情期』?」
ハルナは驚きの声を上げる。
「ハルナのその反応を見る限り、『すくみこ! 』の方にはないイベントみたいだな」
あの少女漫画は女に対して割と、鬼畜設定が多い。
作者は女の名前だったし、その絵柄も女っぽかったが、実は「男じゃないか? 」と疑われていた時期もあると、姉貴から聞いたことがある。
尤も……、作者はサイン会を行い、そこで絵も披露しているために、「実は男性説」、「実は別人が描いている説」は本当に一部でしかなかったのだが。
「なんで、『発情期』が原因なの?」
ハルナは不思議そうな顔を見せる。
「ハルナは『発情期』って聞いてどんな印象がある?」
「『恋の季節』」
そこに忌避感、嫌悪感という悪い感情は見られなかった。
どうやら、犬や猫の印象が強いらしい。
ごく普通の生理現象として受け止められていることが分かる。
―――― だが、アレはそんな生温いものではない。
「原作にも『発情期』って言葉が鬱陶しいぐらい何度も登場する時期があるんだが……、それは、そんな可愛らしい表現では使われていなかった」
あの少女漫画の主人公が、何度も迷い、悩むことになるのだ。
そして、それだけのことがあった。
「ハルナは実年齢、オレより上だったよな?」
「……そうだね」
ハルナは、明らかに異性慣れをしていない。
それでも、オレよりも年上である以上、全く知識のない状態ではないと思う。
世の中には「お花畑」と言われる脳を持つ女も一定数いるらしいが、そんな印象をハルナからは感じない。
勿論、異性慣れしていない上、十年以上昔とは言え、「すくみこ! 」をやっていた以上、そこそこ「夢見る乙女(笑)」な部分はあるだろう。
だが、彼女の考え方自体はかなり地に足が付いているもので、どちらかと言えば隙のない印象が強いのだ。
「それで、わたしの実年齢がどうかした?」
何故か、冷たい目線をハルナはオレによこした。
年頃の女らしく、年齢は禁句のようだが、問題は年齢の話ではないので、気付かなかったことにして、話を進めさせてもらう。
「原作において、この世界における『発情期』と呼ばれる言葉は、動物に使われるものじゃない」
だから、問題となったのだ。
ハルナは一瞬、怪訝そうな顔をする。
「人間に対して使われるものだ」
「人間に?」
その言葉で、明らかにハルナの雰囲気が変わった。
警戒心、猜疑心……。
それはオレに向けられた感情かは分からない。
「彼氏がいない歴イコール年齢のハルナでも、性に対する知識はあるよな?」
「いろいろ突っ込みたいことばかりだけど、最低限の知識はあるつもりだよ。ただ年齢制限系ゲームに出てくるような、マニアックな知識に対しては、そこまで知らないと思う」
ハルナの言う「最低限の知識」がどの程度のものかは分からない。
保健体育の教科書にあるような話なのか、ネットでまことしやかに氾濫しているような情報なのか、女友達からの情報なのか。
彼女の態度からでははっきりと判断はできないが、これだけは言わせてもらおう。
「いや、女に突っ込むのは男の方だろ?」
「ちょぃ、ちょっと待て!」
うむ、理想通りの反応をもらった。
顔を真っ赤にして、オレに向かって叫ぶハルナ。
その顔は、「風の神子」としても可愛らしいが、その背後に浮かび上がる幻影もはっきりとした表情はいつも見えないが、顔を赤くしていることだけはよく分かった。
「ハルナ、顔、赤いぞ? いろいろ考えすぎじゃねえか?」
「うっさい!!」
そんなハルナをもっと愛でたい気もするが、残念ながら、今はそんな時ではない。
このぐらいで我慢しておこう。
「いや、今はそんな問答でハルナをからかっている時じゃねえ。『発情期』の話だ」
話題を切り替えたオレに対していろいろと言いたいことがあるだろうが、それらをハルナは呑み込んでくれる。
この辺りの感覚は、同年代の女にはないものだ。
社会人経験があるためだろうが、流石だと思える。
「もし、原作設定のとおりなら、今、大陸ではとんでもないことになっているはずだ」
「とんでもないこと?」
オレの言葉にハルナは身構えた。
「ハルナは知らないようだから、原作設定にある『発情期』の話をする」
あの少女漫画の鬼畜な設定の一つだ。
だが……。
「オレの方の知識が役に立つなんてあまりないから、ちょっと嬉しいな」
ハルナの知識は、「すくみこ! 」の設定よりも、彼女自身の経験や現実的な思考などの方がずっとオレの助けになっている。
それに対して、オレの方はまだまだハルナの助けになっているとは言い難い。
この世界があの少女漫画の過去世界というのがはっきりしていないこともあるが、あの少女漫画自体、この時代のことを多く語っていないのだ。
だから、少しでも彼女の手助けになれるのは嬉しいと素直に思えた。
「ヒカルは十分、役に立っているよ」
ハルナは、言葉を選ぶように目線を逸らしながら、そう答えてくれる。
気遣われ過ぎだろ、オレ。
それでも、彼女から、その「気遣い」をされる程度の場所にいることは、やはり嬉しかった。
「そうか」
なんとも思っていないように答えたつもりだが、それでも妙に気恥ずかしい。
まるで、中学生の恋愛だ。
それなりにいろいろ経験してきたつもりだし、自分でも昔に比べてかなりすれてしまったと自覚している。
だが、そんなオレにも、まだこんな感情が残っていたんだな。
「じゃあ、ヒカルの話を聞かせてくれる?」
「おう!」
何故か、少しだけ笑っているハルナの言葉に条件反射のように返事をしたが……。
「但し、ハルナにとっては面白くない話だと思う」
今からする話はそんなに楽しく思えるとは思えなかった。
「わたしにとって?」
正しくは……「女にとって」……だろう。
「原作でも賛否両論って言っただろ? 作者がこれまでの路線を転向したかのように見えたからだ」
それまでは一般的な少女漫画のように、主人公の恋愛に対しては、やや温めの世界ではあった。
すれ違いの多さとか、近くにいる異性に対する感情の揺れとかは、現実にはありえないほどのものだったと思う。
そして、剣と魔法の世界らしく、人が目の前で死んだりすることはあったし、主人公自身が傷付くことも少なくなかったが、男女間に対してはそこまで激しいものはなかったのだ。
「路線変更したってこと?」
「いや、作者の頭にはずっとあったらしい。その後で確認したら、さり気なく伏線もいっぱいあったんだ」
改めて読み返すと、日常会話などのあちこちに張り巡らされていたのだ。
自然過ぎて流し読みしてしまうほどに。
「じゃあ、既定路線ってやつだね」
「だけど……、それまで、ゆっくりと育まれていた感情が、強制的に引き裂かれるような状況に、読者が付いてこれると思うか?」
それまでぬるま湯に浸かっていたような世界が、一気に冷水を浴びせたような現実に切り替わった。
「伏線に気付けば……、なんとか?」
「気付くかよ!」
オレは思わず、そう叫んでいた。
「その後の展開で、それが必要不可欠なことだったってことは分かるんだ。それで、主人公が考え方を変えていくからな」
その結果、主人公たちの関係は大きく変わっていく。
どこか夢見がちな部分があった少女が、現実を知って醒めた部分も増えた。
それを少女から大人になっただけだと言ってしまえばそれだけの話。
「だけど……、オレは、あの展開は今でも許せない」
―――― お前は馬鹿か? 誰が、好き込んで好きな女を泣かせたいって思うかよ
そんな作中の台詞に何度も頷いた。
そこには事情があったことを後の展開で知るのだけど、それでも、あの部分の読後感は酷く苦く、やるせなかったのだ。
だが……、今、その時のことを思い出しても仕方がない。
「ああ、悪い」
口元を拳で隠しながら、ハルナから目を逸らす。
昔、読んだ少女漫画に何故、今更、ここまで熱くなってしまったのか。
「別に良いよ。好きな作品で熱くなるのは悪いことじゃないからね」
ハルナは気にしていないかのように笑う。
ああ、その顔が、あの少女漫画の主人公に重なるのだ。
確かにその背後にハルナの幻影は見える。
だが、オレの前で表情を見せてくれるその顔は、あの少女漫画の主人公そのもので……、思わず、あの少女漫画を読んだ時の感情を激しく揺り起こす。
「続きを話してくれる?」
ハルナはさらにそう続きを促した。
オレたちのこんな会話がきっかけで、ここからさらにいろいろなことが動き出すこともまだ知らずに。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




