お互いのキズ
黒髪の女からゆっくりと唇を離す。
その瞬間……。
「おい、こら」
可愛らしくも不機嫌さを全面に押し出したやや低い声。
「お?」
これまでとは一風変わった雰囲気に、思わず自分でも鼻白んだことが分かる。
「貴方、彼女がいるんですよね?」
そう言いながらも睨むその黒い瞳は……、確かな強い光が宿っていて、思わず何かを飲み込んだ。
―――― この瞳は……。
「いるよ」
動揺を悟られまいと、できるだけ軽く言いきった。
「でも、これは『アルズヴェール』が『ラシアレス』にしたものだろ? だから、オレとしては、セーフ……、いや、ノーカウントだ」
準備していた言い訳を使わせてもらう。
転生しているのなら、オレは今後、この「アルズヴェール」として生きていかなければならないだろう。
だが、それでも、感覚としてはどこか別人だと思ってしまうのも事実だ。
しかも触れただけの軽いヤツだった。
そんなキス、挨拶みたいなものだ。
「気は済みましたか?」
「お?」
少しだけ、笑みを浮かべた黒髪の女。
だが、その黒い瞳の中にある光は、オレを完全に捉えた上で、非難することを止めようとはしない。
「でも、このように短絡的な行動は出来れば今後、一切、止めていただきたいですね。貴方の言う通り、確かに互いの身体は『ラシアレス』と『アルズヴェール』。自身のではなく、借り物に過ぎません。傷を付けてお返しするわけにはいかないでしょう?」
そう言いながら、黒髪の女は自分の口を袖口で拭いながら、そう言った。
まるで、汚いモノに触れてしまったとでもいうように。
「キズ……だと?」
その言葉と行動は、この女にとって、先ほどのオレの行為は、相手の身体だけではなく、この身体まで傷つけるものだと言っていた。
「貴方は違うかもしれませんが、普通に考えれば、望まぬ相手とのキスなど、『傷』と言いますね。つまり、貴方は『ラシアレス』と『アルズヴェール』の両名を同時に傷付けたことになるのではないでしょうか?」
そんな発想はなかった。
ただ……、目の前にいる女があまりにもオレを軽く扱うものだからつい……。
それに……、中身はどうであって、この肉体は自分のものでもないし、恐らく目の前の女だって同じような状況だろう。
それなら、傷つくというのは、少し違わないか?
仮に本当の持ち主の心が、この肉体のどこかに眠っていたとしても、それを当事者が知らなければ大きな問題になるとも思えない。
何より……。
「乙女ゲームなら、この程度の百合要素はあるだろ?」
オレは、乙女ゲームとやらをやったことはないが、男向けのADV系ゲームには、女同士でイチャイチャする描写のものもある。
風呂場や水着のシーンで、キャッキャウフフなんて、寧ろ、王道、様式美ですらあるだろう。
もともとこの身体が「乙女ゲーム」だというのなら、それに基づくような行為を、スタート前にするぐらい、そんなに問題があるとも思えない。
「わたしがやったゲームにそんなシーンはなかったと記憶しています。ああ、あなたがやるようなゲームには、殿方同士が同意なくいきなり口づけを交わすことがあったということですね?」
笑みを携えたまま、丁寧な口調で、とんでもないことを発言された。
その内容は、全身に鳥肌が立つほどおぞましく感じる。
「あるわけねえだろ!? 気色悪い」
可愛い顔と声でなんてことを言いやがるんだ、この女は。
実は、腐ってんのか?
腐ってんだな?
そんな行為が容認されるのは、腐った思考の持ち主向けのゲーム……、いわゆるBL系ってやつ以外、あり得ない!!
「先ほどのあなたの行為と同じことでしょう?」
激高するオレの頭を冷やすかのように、表情を変えずに女は言い切った。
その言葉で、気付かされる。
確かに、腹が立ったからと言って、単純な報復行動に出たのは、オレの方だ。
それも、力尽くで、嫌がる相手を無理矢理……というほど酷くなくても、かなり強引な手法だったことは間違いない。
しかも、様々な言い訳を準備していた分、自分自身でも疚しい行為だったと分かっていたわけだ。
そして、自分に言い聞かせるかのように、「問題ない」と何度も念を押す辺り、自分でも問題があることは分かっていたのだ。
それはなんてタチが悪い行動だろう。
「男と女で傷の大きさを比較する気はありませんが、お分かりいただけたようなら、何よりです」
オレの表情から、そう判断したらしい。
冷たく突き放すような口調のまま、黒髪の女はそう言った。
「……悪かったよ」
なんか……、ガキみたいだ。
だが、逆にこの年齢にもなると、自分の人間性に対して叱ってくれるような人間は減ってくる。
友人、彼女であっても、間違ったことを間違ったまま突き進んだ時は、見放すだけで、わざわざ注意、警告はしなくなるのだ。
そこまでその相手に関わりたくもなくなるから。
情けなくて、目も合わせられない。
諭すような口調でも、目が口ほどにものを言っている。
顔を上げれば、あの強い瞳は、容赦なくオレを責めるだろう。
「確かにこの身体はオレの物じゃないもんな、『ラシアレス』」
オレは自然と、この身体の胸元に触れた。
そこに男によくあるようなイヤらしい気持ちは一切ない。
だが、自分と違った感触の肉体がある。
そして、鼓動も。
オレは顔を上げて、黒髪の女を見る。
その黒く大きな瞳がオレの視界に入る。
あの少女漫画の主人公に対して、よく使われた言葉がある。
『何よりもオレを惹きつける黒く強い瞳』
それは、主人公が決意を秘めて、向き直り、立ち直り、また這い上がる時にも使われていた表現だった。
それは、こういうことかと理解する。
一度だけ、似たような瞳を見たことがある。
それは、強い瞳と言うよりも、輝きを持つ瞳だったが、オレを惹きつけた。
ただその瞳を持った女性は、とてもじゃないけどどんなに頑張っても自分が手に入れられるとは思えないような相手で、同時に、その瞳の魅力も、自分が子供で相手が大人だったからだと納得した。
そんな一度きりの出会いから数年経っても、そんな瞳を持つような女に出会うことはなかった。
当然だ。
あんな瞳を持つ人間がその辺にゴロゴロしているはずがない。
だが、まさか、こんなよく分からない世界に来てから、もっと大きな輝きを持つ女に出会うとは思ってもみなかった。
「行かないのか? 『ラシアレス』」
気恥ずかしさを誤魔化そうと、今度はオレの方から手を差し出した。
この手を振り払われても怒りは湧かないだろう。
そして、先ほどまでのオレの行動を省みたら、彼女には、オレを拒絶する権利は十分すぎるほどあるのだ。
「ありがとう、『アルズヴェール』」
だが、彼女はそのまま、手をとった。
その行動に驚いてしまう。
「疑わないんだな」
先ほどまでのオレの言動は、何一つとして褒められたものではない。
急な方向転換は、逆に疑いを招くかと思ったのだが……。
「これは、歩み寄りではないのですか?」
不思議そうにオレの手を見ながら彼女はそう口にする。
「いや、女って言葉の裏を読もうとするだろ?」
少なくとも、身内、知人、友人、彼女。
オレに関わった女は皆そうだった。
意味なく発した言葉にすら、何らかの意味を考える。
それで、何度面倒な事態になったことか。
裏なんか読まず、そのまま、受け止めてくれるだけで良いのに、なんで、わざわざ面倒なことを考えるのか、オレには分からない。
「あなたの周囲は、見る目のない女性ばかりなのですね」
微かに笑いながら、そんなことを言われたオレは、心臓に杭をぶっ刺された気分となる。
確かに周囲には見る目がない女ばかりだが、同時に、そんな人間ばかり選んでしまう自分も見る目がないと言われたような気がしたのだ。
そして、オレに見る目がないことは、十分すぎるぐらい、理解できることだった。
だが、そんな風に言われたのも初めてで、なんとなく、擽ったさを感じてしまう。
「悪い男に騙されそうなタイプに言われてもなあ……」
彼女の周りには、駆け引きとか、騙し合いとか、擦り付け合いとかに無縁な幸せな存在が溢れているのだろう。
羨ましい限りだ。
「でも、良いや。さっきは本当に悪かった」
オレは、素直に謝る。
「いいえ。わたしにとっては大したことじゃありませんので」
嘘を吐け。
そう言いたくなる気持ちを抑えた。
彼女は「傷」と言ったのだ。
少なくとも、軽い付き合いで、簡単に唇を許すような緩さはないだろう。
だが、そこを指摘すれば、また拗れるし、さらにその傷を抉ることになる。
オレはそれ以上の言葉を飲み込むしかなかった。
そして、オレはゆっくりと彼女の手を引き、部屋の中央に立つ。
すると、そのタイミングを見計らったかのように、オレたちは、ここではないどこかに飛ばされたのであった。
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