ずーっと以前に書いた創作怪談シリーズとショートショートシリーズ
振り向かない背広
グラスの中で、氷が音を立てて溶けた。
褐色の液体が、シェリー樽の薫りを漂わせている。
ふと顔を上げると、目の前では、いつものマスターが暇そうに雑誌を読んでいる。
「ねえ、マスター」
そう、わたしが声を掛けると、痩せて疲れた顔のマスターは大儀そうに顔を上げた。
「なんだい、美佳ちゃん」
「ううん、なんでもないの」
そう言うと、わたしはため息をつく。
なんて暇そうなんだろう。もうすぐ廃業するっていう噂、本当なのかも。
「今度ね、仕事が変わってね、だから土曜日が休みになるの。今日は火曜でしょ?来週から火曜には来られなくなるけれど、心配しないでね。金曜の夜に来るわ」
「そうかい、美佳ちゃん。今度は、どんな仕事をするんだい?」
「うん、今度はね・・・」
マスターは決して、無愛想なんかじゃない。お店もきれいだし、入りにくい場所っていうわけでもない。
それなのに、どうしてこんなに人が少ないのかしら・・・
金曜日にバーに行くようになって、一ヵ月が過ぎようとしていた。
お店は相変わらずひっそりとしている。オフィスビルの半地下にある店・・・
狭い店内には、2つほどのボックス席とカウンター。照明は電灯風の色合い。静かにジャズが流れてくる。
氷が音を立てて溶ける。
「ちょっと、お手洗い・・・」
そう言って席を立ち上がる。ふと見ると、いつの間にかボックス席に初老の紳士が座っていた。
「マスター、お客さん・・・」
そう言いながら、わたしはトイレへ向かった。紳士は新聞を読みながら何度か頷いて、そして微笑んだ。わたしも、つられて微笑むとトイレの扉を引き開けた。
「もう帰ったのかしら、あの男の人・・・」
そう、マスターに声を掛けると、マスターは引きつった笑いで、わたしを見た。
「美佳ちゃん。その話は・・・」
言い掛けて、口を閉ざす。
「なに?どうしたの?」
「いや、なんでもないよ、美佳ちゃん」
金曜の夜に来るようになってから、わたしは初老の紳士を何度か見た。
しかし、一度としてマスターは、そのストライプ柄のネクタイに細みのグレースーツの彼に声を掛けるということは無かった。
いや、それどころか、わたしも一度として声を掛けるチャンスが無かった。
気が付かないうちに、そこにいる。
その初老の男は、気が付かないうちに、そこにいるのだった。
「ねえ、マスター」
その夜、わたしはたまらずにマスターに、こう言った。
「あの男の人、何かおかしくはない?」
マスターは、唇の半分だけに苦笑を浮かべて首を振った。
「どの男の人だい?」
「ほら、奥のボックスにいる男の人・・・」
そう言いながら、わたしは振り返った。
「あれ?」
そこには、誰もいなかった。
「おかしいなあ。さっきはいたように思うんだけど」
マスターは首を振る。
「ずっと、あそこには誰もいないよ。美佳ちゃん、疲れているんだよ」
そうつぶやくマスターこそ、疲れた表情でグラスを磨いていた。
「そんなはずはない」
わたしは、慌てて言った。
「さっきまで、確かにストライプのネクタイをした男の人がいたもの」
「美佳ちゃん・・・」
ため息をつくと、マスターはつぶやいた。
「あの人は幽霊なんだ・・・」
「そんな、まさか」
わたしは、思わず笑いながらマスターの顔を覗き込んだ。
マスターは、優しい目でわたしに語りかけた。
「ストライプのネクタイ。細みのグレーの背広の人でしょ。歳は50くらい」
そう言いながら、マスターはカウンターの下の方から何かを取り出した。
「そうよ。優しい目をした男の人よ。いつも新聞を広げていて、何かの記事を読んでいるわ」
「この人でしょ」
不意にそう言うと、わたしに一枚の写真を手渡した。
写真の中では、3人の男の人が写っている。一番左はマスターだった。今よりも太っていて、何年か前のものらしい。一番右の男の人は見たことが無い。真ん中に写っているのが、ストライプのネクタイの・・・
「そう、この人。なんだ、知っている人なのね?常連さん?」
マスターは、ふっと息を吐いた。
「そう、常連さんだったよ、3年前までは、ね」
「3年前?」
「そう3年前。あの人はね、近くのビルで貿易関係の仕事をしている社長さんだったんだけどね。もう亡くなっているんだよ」
「からかってるんでしょ」
そうわたしは言うと、そっと水割りのグラスに手を伸ばそうとした。そこで、手が震えていることに気が付いた。
「からかってなんかいないよ」
「でも・・・」
「思い出してみるとね、あの日、こうおっしゃられたんだよ」
わたしは、無言でマスターを見つめた。
「あの日、あの紳士は新聞を読んでいて、急に大声をあげた。僕がね、声をかけると、こうおっしゃったんだ」
「なんて言ったの」
「いやいやうれしいことがありましてね、と、そうおっしゃったんだ」
「うれしいこと?」
「そう。でもね、あの人は結局、教えてはくれなかった。そのうち教えるよ、と言ってね」
わたしは頷いた。
「だがその日以来、あの人は来なくなった。お亡くなりになったと聞いたのは、その一ヵ月くらい後だったよ。だからね、あの日何があったのか、もう誰にもわからないんだよ」
「じゃあ、なんで・・・」
「その後くらいだったよね、店に来るお客さんがね、ストライプのネクタイを締めた、渋い紳士のことを話すようになったのは。決まって人が少ない金曜の夜には、現われるんだそうだよ。そんなことがあるうちに、だんだんとお客さん、減っていってね。今では、こんな有様なんだよ」
そこでマスターは、今まで磨いていたグラスにミネラルウォーターを注ぐと、一気に飲み干した。
「たぶんね、とってもうれしいことがあったんだよね、その人。亡くなる最後の、本当にうれしいことだったんだろうね」
マスターは首を振って、仕方なさそうに、こう付け足した。
「その人、ここを出てしばらく先の交差点で事故に遭われたんだって。最後の最後、本当にうれしいことがあった。だから、きっと、この店にずうっと座って、あの新聞を読んでいるんだ、そう思うんだけどね・・・」
そう、マスターが言うと、わたしの目の前でグラスの氷が、コロン、と音を立てて溶けていった・・・