動乱群像録 85
「え?」
兵士の一人がそうつぶやいたのも当然だった。彼の視界から急に康子の姿が忽然と消えたのだから。そして後方で血飛沫を浴びて倒れる戦友。
「なんだ!どうした!」
士官は叫んだ瞬間にその首が消し飛んでいた。
「ごめんなさいね。皆さんに恨みがあるわけでは無いですけど」
邸宅に砲を向けていた装甲車の上にいつの間にか康子が立っていた。兵士達は銃を構えるのも忘れて呆然と康子の血に染まった紫小紋の留袖のたなびくのを眺めていただけだった。
「でもまだおやりになるのが兵隊さんですものね」
四輪駆動車に乗っていた機関銃手が銃口を康子に向けようと手を動かした。次の瞬間には康子は消え、彼の両腕も鋭利な刃物で切り取ったように車内に転がった。
「撃て!いや撃つな!味方に当たる!」
「撤退だ!撤収!」
将校達は混乱して部下達に向かってわめくだけ。兵士も誰も銃口をどこに向けたらいいのか悩むようにあちこちを見回っている。
「屋敷を撃て!こうなれば道連れ!」
そう叫んだ佐官の腹部が一撃で切り裂かれる。
「お屋敷に攻撃なんてしたら命がいくらあっても足りないですわよ」
どこからとも無く聞こえる声。兵士達は恐慌状態で右往左往する。その間にもあちこちで兵士の首が落ち、腕がちぎれ、足が切り取られる。
「助けて!」
「うわ!」
普段なら、もし相手が銃を構えた普通の兵隊なら戦力差も気にせず吶喊攻撃も辞さない胡州の兵士も見えない敵の存在にただ慌てふためくばかりだった。そして逃げ出した彼等に車載機関銃の掃射が届き始める。
「ああ、早かったみたいですわね」
近衛師団の車両が到着したときには西園寺邸の前の道路はぶつ切りにされた兵士の死体と、手足を失ってもがく烏丸派の生き残りの兵士と血まみれで微笑んでいる西園寺康子の姿があるばかりだった。