動乱群像録 52
「大佐、車はどこに回しましょうか?」
田中と言う従卒。半年ばかり安東を担当しているこの青年下士官の気配りが最近うれしいと思うようになってきていた。ロビーには陸軍幹部との接見を求める格地区の防衛部隊の幹部連とそれに付き従ってきた士官達であふれていた。
「今日は隊には戻らない。タクシーを拾うから先に帰っていてくれ」
そんな安東の言葉に嫌な顔ひとつせず敬礼するとそのまま自動販売機に向かう田中。安東はそのまま階下へ向かうエレベータを待つことにした。ちらほらと振り返るとロビーでは相変わらず烏丸派と西園寺派の将校達が談笑を続けていた。部隊の幹部連中と言うことで明石から聞いている若手将校の小競り合いのような殺気だった雰囲気は無かったがそれぞれに相手を意識しながら小声で話し合っている。その内容がお互いの悪口に終始しているだろうと思うと安東の気持ちは憂鬱になった。
「大佐これを」
エレベータが開いて乗り込もうとした安東の背中に声をかけてくる田中。彼の手から缶コーヒーを手にして軽く笑みを浮かべると一人で安東はエレベータに乗り込んだ。扉が開くと静けさが狭い箱の中に広がる。そしてそこは思索に向いていると安東は思っていつもどおりこれから会う一国の皇帝のことを思い出した。
嵯峨は昔から気が付く男だった。
高等予科の学生時代から俊才として知られた嵯峨。何をやっても完璧にこなし、それでいていつもふざけているような表情で教官達をからかい続けた食えない男と言うのが安東の嵯峨と言う男の感想だった。授業中は寝ていることもあるが多くは教室にいないことすら多かった。安東も何度か屋上で胡州の赤い空を見ながら居眠りをしている嵯峨を起こしに行ったものだった。それでいて常にテストとなると首席には常に嵯峨の名前があった。
『教科書一回読めば大体のことは分かるぞ』
得意げにそういう彼に安東がカンニングペーパーの作成を依頼したことは一度や二度では無かった。まじめな斎藤は別として安東と赤松の二人は多分嵯峨がいなければその後士官学校への入学は無理だったと正直思っていた。
そしてそんな予科を出ての進路を考え出したとき、斎藤が上町の芸者に入れ込んでいると言う話を聞いた。
斎藤はともかく胡州の女学生には名前が通っていた。喧嘩と悪戯でワルと呼ばれていた安東達と付き合っているというのに斎藤の評判はどこでも悪いものではなかった。特に歌壇でもてはやされるようになった17のころからは男ばかりの高等予科の校門の前に斎藤を慕って来た近隣の女学校の生徒達を見るのは珍しいことではなかった。だがいつの間にか斎藤は悪友の嵯峨や赤松、そして自分達と一緒に嵯峨の兄、西園寺基義のコネで出入りが許された上町の料亭に入り浸るようになっていた。さすがに遊び人で知られていた外交官である西園寺基義も未成年に座敷遊びを教えることはしなかったが、そんな中でいつの間にか一人の売れっ子の芸者が斎藤に付きまとうようになっていた。
斎藤から彼女の身請けの話の相談を受けたあのころ。部屋住みの悲しさで金の工面が付かないことに気づいて泣きじゃくる斎藤をなだめたあの時の嵯峨の落ち着いた顔が思い出される。
「あのころは……あのころには戻れないんだな」
そう独り言を言ったときエレベータの扉が開いた。仏頂面の醍醐文隆とその取り巻きが見えた。
「どうも……」
何を言っていいのか分からないまま頭を下げた安東に醍醐の取り巻き達が下品な笑いを向けてきた。安東はそれを無視するとそのまま陸軍省の正門へと歩き始めた。