EP07:1996年6月16日「井戸、待たせたね」
あまりのショックに視点が定まらない。
ふらふらになりながら会議室に戻ると、テーブルには人だかりができていた。
「郷原補佐ぶっ殺す!」「お前は何様だ!」「死にやがれ!」
シュプレヒコールがごとく吹き荒れる郷原補佐の悪口。
こんなに被害者がいるのか。
きっと江田さん達のヒートアップに「僕も」「私も」と集まってきたのだろう。
江田さんと目が合う。
セミロングの髪をなびかせながら、勢いよく体を乗り出してきた。
「井戸君、どうだった?」
「ん……ああ……」
求められるまま、面接室のできごとを全て話す。
終わった瞬間、江田さんが叫んだ。
「郷原補佐は人間じゃない! 井戸君かわいそう!」
さらに学生達の大合唱。
「そうだ、そうだ! 井戸君かわいそう!」
再び江田さんが叫ぶ。
「荒川法科大学だって大学だ!」
「そうだ、そうだ! 学歴で差別するな!」
江田さんが手を差し出してきた。
「ほらほら、井戸君も盛り上がろうよ」
しかしさり気なく振り払う。
盛り上がってるみんなには悪いけど、とてもそんな気になれない。
被害を受けたみんなが怒るのは当然だ。
もちろん俺だって怒ってる。
あれはもう圧迫面接なんかじゃない、まさにモラル・ハラスメント。
人の尊厳を傷つけて悦に入っているようにすら感じられた。
なんて苛立たしい。
あんな奴絶対に許せないし、ぶん殴ってやりたい。
でも、みんなの叫ぶ「井戸君かわいそう」。
全然俺に向けられている気がしない。
一瞬は嬉しかった。
しかし笑いながら叫んでいるのを見ると、単に面白がってるようにしか受け取れない。
俺の側だって心配や同情をしてほしくない。
この自分を全否定された気分がわかるか。
言い返しようのない正論で刺されたからこそ、より激しく深く心を抉られた。
もう一人になりたい。
早く家に帰って休みたい。
そもそも、どうしてみんな集まって騒いでいるのか。
憂さを晴らしたい気持ちはわかる。
だけど正直言って不毛だし、気力が残ってるなら他を回った方がいいと思う。
せめて騒ぐにしても場所を移した方がいいんじゃなかろうか。
職員、ずっとこっち見てるし。
さて……どうしよう。
厚生省の空気を吸っているだけでも不快。
だから一刻も早く出たい。
でも自分がネタにされてるせいで席を立ちづらい。
対面に座る出口さんは騒ぎに全く関心なさそう。
手帳を開いて、黙々とメモをとっている。
彼女は被害を受けていないのか、それとも俺と同じ気分なのか。
ただ、さっきも江田さんの愚痴に耳を貸さなかった辺りマイペースには違いない。
──あれ? 出口さんのカバンから覗くクリアファイルは?
大きなリボンをつけた二次元ヒロインの頭の一部に見える。
もしかして。
立ち上がり、ぐるっと回って出口さんの傍へ。
失礼と思いつつもカバンの中を覗き込む。
間違いない。
我が愛するエロゲー「同級生2」で圧倒的人気を誇るメインヒロイン「鳴沢唯」だ。
なぜ、出口さんが同級生2!?
女の子がエロゲー?
こんなクールで理知的に見える子が?
あまりに意外すぎて、まるでハンマーで頭を殴られた感じだ。
いや、きっと俺だけじゃない。
誰であっても同じ衝撃を受けるはず。
だってエロゲーは男の願望を充たすため作られている。
当然プレイヤーの性別は男。
そして、とてもじゃないが「趣味」と公言できるものではない。
それなのに出口さんみたいな子が、しかもキャリア官僚の採用試験会場でエロゲーグッズだなんて。
あ、でもダメ。
好奇心の方が先に立つ。
それに、もし本当に同級生2が好きなら俺の同志だ。
聞いてはいけない、それでも聞かずにいられない。
ふらふらと衝動にまかせて出口さんの耳元に口を寄せる。
(鳴沢唯好きなの?)
ガシャンと椅子が倒れる音。
出口さんが跳ねるように立ち上がった。
さっきまでのクールな佇まいはどこへやら。
ぽっかり口を開け、あわわと震わせていた。
どうした、と騒いでいた学生達が振り返る。
出口さんはそそくさと手帳をカバンに入れると、肩を組んできた。
「井戸、待たせたね。次の官庁に行こうか」
なぬっ!?
備前君が怪訝な顔で問うてくる。
「二人とも、いつの間に仲良くなったの? さっきまで全く口利いてなかったのに」
しかも呼び捨て。
「つい先程、面接ブースの中で。では、皆様ごきげんよう」
出口さん──俺も出口でいっか。
肩へ回された手に力が込められ、強引に引き摺られていく──って!
密着してるから胸が!
わけわからないわ、どぎまぎするわ。
いったいなんなんだ!
江田さんが背後から大声で呼び止めてくる。
「わたしと飲む約束は!?」
そうだった。
しかし出口が耳元で囁く。
(ほっとけ。行きたくないんだろう?)
気づいてくれてたんだ。
当然、江田さんから逃げられるのは万々歳。
体の力を抜いて、出口に我が身を委ねた。