EP03:1996年6月16日「郷原課長補佐、死にやがれ!」
「寝過ごしたああああああああああああ!」
起きたら、時計は正午を回っていた。
朝一番で顔を出して熱意を訴えるつもりだったのに!
ああ、ついゲームに夢中になりすぎてしまった。
シャワー、シャワー。
歯磨き、歯磨き。
ワイシャツにパンツにネクタイに上着!
母さん、ごめん。
机の上のすあまを握り、かぶりつきながらドアの鍵を締める。
──霞ヶ関到着。
地下鉄B3出口の階段を駆け上って右に折れると、クリーム色の庁舎が見えた。
厚生省、労働省、環境庁の入る中央合同庁舎第五号館。
やっている業務を象徴したかのような暖かい雰囲気を醸し出している。
庁舎に入ると【官庁訪問の方はこちらへ】と地図がある。
エレベーターに乗り、訪問会場の会議室へ。
ドアを開ける──うっ!?
見渡す限りの学生、学生、学生。
会議室は紺色のスーツを着た学生達で埋められていた。
不人気かと思えばとんでもない。
他を知らないからわからないけど、これは大人気なんじゃないかと思う。
女子の方が人数多いのは業務柄か。
まさに見るだけで気分が重くなるドブネズミの集団。
その中にあって石鹸の香りがほのかに漂う錯覚を覚えるのは救われた感じだ。
ひとまず空席を確保。
カバンを置いて受付へ行き「訪問票」をもらう。
書き込む内容は名前に住所に大学名に成績に志望動機などなど。
民間企業のエントリーシートとほとんど変わらない。
違うのは、国家一種の受験職種と合格順位を記入する欄があるくらい。
合格発表がまだなのに順位欄があるのは昨年度以前の合格者のためだろう。
資格は三年間有効だから。
書き終えて受付に提出し、再び席へ。
空気を読むべく耳を澄ます。
テーブルの話題は昨日の試験っぽい。
「あの政治の問題どうだった?……」「あれはね……」
女子二人と男子一人。
ただ話しているのは男女二人だけ、残る女子一人は黙って聞いている。
ううん、眺めてるという表現の方が正確かな?
顔は向けているけど目線が宙をさまよっている。
会話に関心ないのが傍からは一目瞭然だ。
孤高を気取る女の子はばっさり切ったショートカット。
透き通るかのように色白で、切れ長の目を始めとするシャープで整った顔だち。
内面も表れているのか、気品高く理知的に見える。
ただ「美少女」と呼んでいいのか「美少年」と呼んでいいのかわからない。
スーツが女性物だから女性とわかるけど、そうでなければ一見して戸惑う程に中性的な容姿をしている。
二二歳前後で「女の子?」とか「少女?」というツッコミも入るかもしれない。
しかし「女性は幾つになっても『少女』」というのが亡くなった母の教えである。
会話している女の子の内一人はとんでもなくかわいい。
程よくゆるっとふわっとセミロング。
ほんのり入ったブラウンが毛先の動きを軽く見せ、会場の誰よりも垢抜けさせている。
垂れ目がちなぱっちり目の童顔に、鈴の鳴るような甘い声。
この会場にいるくらいだから頭もきっといいのだろう。
まるで二次元から抜け出たような女子というのは存在するものだ。
会話の内容からすると、二人は行政職っぽい。
だったらその内経済の問題にも話題が及ぶはず。
「経済の計算問題は──」
今だ。
「あれ、難しかったよね」「うんうん」
「二人は行政職?」「うん」「うん」
さっくり話し終えたところで、自己紹介が始まる。
まずは二次元ヒロイン(仮)から。
「わたしは江田、学校はお茶の水」
大学名まで名乗るのか……って、それもそうか。
就職活動なんだし。
次いで一緒に話していた男子。
「僕は備前、早稲田」
おどおどしてて頼りなげだけど、よく言えば優しそう。
「僕」という一人称が、さらに柔らかく感じさせる。
江田さんが「次はあなたの番」と、ショートヘア(仮)さんに視線を向ける。
「……ボクは出口、慶應」
ボク!?
「あたし」でもなく「わたし」でもなく?
自分を「ボク」なんて呼ぶ女の子は初めて見た。
普通ならドン引きするところ。
だけど出口さんの場合、容姿が中性的だけに似合ってはいる。
それより、自己紹介するまでに間が空いたのはどうしてか。
内気な引っ込み思案には到底見えないけど。
出口さんがちらりとだけ目線を寄越す。
次は俺の番だ。
「俺は井戸、荒川法科大学」
──ピシッと空気がひび割れた気がした。
三人とも、まるでかわいそうな人を見る目。
みんなみたいに胸張って名乗れるような大学でないことは自覚してるからいいけどさ。
江田さんが声を上ずらせながら話しかけてくる。
「井戸君って爽やかで優しげで格好いいよね──」
ありがとう。
例えフォローのためのお世辞でも嬉しいよ。
「──ねね、電話番号教えて?」
はい!?
「電話番号?」
なんて積極的、声までひっくり返ってしまった。
しかし江田さんは慌てたように手をぶんぶんと振って「違う違う」と強調する。
「情報交換のためだよ。周り見てみて、みんな連絡先交換してるでしょ?」
江田さんが腕を伸ばしながら、広げた手の平で会議室内をなぞってみせる。
本当だ、あちこちで電話番号交換してる。
でも、それならそれで言い方あるような。
あの台詞の流れじゃ誰だって誤解するぞ。
差し出されたパンフレットの裏に名前と電話番号を記して返す。
続いて、順繰りに4人で各々のパンフを回し合う。
俺と女子二人の電話番号は「03」と自宅の電話番号。
しかし備前君の電話番号だけは「030」から始まっていた。
江田さんが目を細めつつ、備前君に問う。
「備前君って携帯電話持ってるんだ。PHSじゃなくて」
「PHSなんて繋がらないじゃん」
「うわぁ、すっごーい! お金持ち! いいなあ……」
備前君が気分良さそうにはにかんでみせる。
相手も携帯電話持ってないと意味が無いだろ、なんてのは負け惜しみだよな。
基本料は高いし、うっかり話したら料金がいくら掛かるか考えると怖くて持てない。
──受付の職員が大声を張り上げる。
「江田さん、江田さんはいますかー」
「はい! いってきまーす!」
立ち上がるや、くるりと俺達に向かって敬礼のポーズ。
ああ、かわいいなあ……ちょっと、あざとさも感じるけど。
──一時間経過。
江田さんが戻ってきた……あれ? 何か様子が変だ。
先程までの二次元ヒロインっぽい振る舞いはどこへやら。
つかつかと大股ですごい勢い。
椅子に座るや、拳をテーブルに激しく叩きつけた。
「郷原課長補佐、死にやがれ!」