EP29:2011年某月某日「キャリア官僚なんて全員がサイコパスだ、ボクを含めてね」
市ヶ谷のイード本社に戻って仕事。
社長室でパソコンに向かっていると、出口がやってきた。
「はろー」
「はろーじゃない、もうとっくに夜だ」
「『霞ヶ関は終電終わるまで昼間』と農水省で教えてもらったんじゃなかったっけ?」
古い話を、よくもまあ。
日中に厚生労働省で当時の話をしてきたばかりだから余計に懐かしく思える。
「防衛省は市ヶ谷だろうが」
と言うか、ここに会社を構えさせたのは出口だ。
「勤務の合間縫ってエロゲー攻略したいから」とか無茶苦茶言って。
しかし実際のところ、俺も出口もエロゲーを攻略する時間なんてない。
貧乏暇無しとはよく言ったものだ。
エロゲーの主流が攻略に時間の掛かるアドベンチャーゲームからお手軽なノベルゲームへ移ったおかげで時代を代表するゲームだけは押さえることができた。
鍵、葉っぱ、型月……エトセトラ。
ただ、もう攻略ではなく、アニメや小説を楽しむのと変わらない。
エロゲー熱そのものが冷め、俺達はいつの間にか「あの頃のエロゲーはよかったよな」と語り合う懐古厨になってしまっていた。
ただきっとそれ以上に大きいのは「エロゲーが趣味」と公言できる時代になってしまったこと。
しかも女性ですら。
本来なら喜ばしいはずなんだけど、ここまでメインストリームになることは望んでなかった。
どこか気が抜けてしまったようで。
他人に言えない背徳感を抱えるからこそはまりこむものがある。
そのことをつくづく悟らされた。
「ボクは今官邸に出向してるから永田町なんだけど?」
「誰がボケ返せと言った。わざわざここまで仮眠取りに来ることはないだろ」
結局イードの社長室は、単なる出口の仮眠所として使われている。
俺としては役に立つなら別に構わないし、実際に官舎も庁舎から遠かったからわかる。
しかし出口が今住んでる官舎は官邸のすぐそば。
誰が見ても不合理極まりない。
「このソファーの寝心地がいいんだってば。短い時間でも疲れが取れる」
そりゃ、お前に頼まれて、わざわざルノアールのソファーに限りなく近い品を仕入れたんだから。
あのソファーに思い切り背を伸ばして寝転がるのが夢だったとか何とか言って。
「もう減価償却も済んだし、やるよ。持って帰れ」
「めんどくさい」
出口が気怠そうに、しかも投げ槍気味に答えてから、パンプスを脱ぎ捨てる。
「あー、ふくらはぎがパンパン。エレベーターくらい使わせてよ」
出口の部署は震災対策本部そのもの。
具体的にこそ話さないものの、内部で色々あるらしいのはわかる。
「そういえば今日、厚生省行ったよ」
「で?」
足を抱え、ひたすらふくらはぎを揉んでいる。
「出口の同期の総括がいてさ、郷原補佐のことを色々話してきた」
出口の動きがピクッと止まる。
「ふーん、どんな?」
素知らぬ顔をしつつも聞きたそうなのがわかる。
今日聞いたことをざっと話す。
──聞き終えた出口は呆れ顔。
「まさか、その話信じたの?」
「信じるも何も辻褄は合ってるじゃないか」
はあ、と頭を抱えた。
「キャリアに論理操作はお手の物だよ。そんなの表沙汰にされるのを防ぐためにもっともらしい話をその場で取って付けただけだ」
「表沙汰って一五年も昔の話を」
「寝かせておけば表現とタイミング次第で絶好の叩き記事になるよ」
「人間、あんな咄嗟に嘘を吐けないってば」
「井戸は一五年前に何を学んだ。キャリア官僚なんて全員がサイコパスだ、ボクを含めてね──」
自嘲気味に言うけど、出口が俺に嘘を吐いた事は無い。
「──彼らの主張に耳を貸すなら、まず『他をお回り下さい』。引き下がらなかった場合に初めてモラハラ。その方が合理的じゃん。井戸のケースでは最初に学校名を復唱させてる。そんな必要ないよね?」
「つくづく、お前って理屈っぽいよな」
「今日はそんな一言じゃ引き下がらないよ。ボクは人間には越えてはならない一線があると言いたいだけ。客観的に誰が見てもモラハラとしか言いようのない行為を『学生のため』なんて理由で正当化されちゃたまらないよ」
「出口の言う通りなのかもな、とは思う」
「だったら、もっと怒ろうよ。井戸は一五年越しに再び厚生省から踏みつけられたんだよ」
ああ、そういうことか。
出口は「学生達に加えられた」モラハラじゃない。
「俺に加えられた」モラハラに怒ってるんだ。
あの日、江田さん達は俺を「かわいそう」と呼んだ。
しかし実のところは「井戸よりマシ」と見下ろしていたにすぎなかった。
今、出口が怒っているのは俺と同じ目線に立っているから。
それだけ俺の傍らにいてくれているということだ。
「ありがとう」
俺の口からは自然と御礼の言葉が飛び出していた。
出口が目をぱちくりさせる。
「どういたしまして?」
不意を突かれたらしく、言葉が止まってしまった。
今の内に俺の思いを伝える。
「全ての可能性は承知した上で、それでも……俺はできるなら善意に解釈したい」
「はあ、なんてお人好しなのさ。わかってても溜息ついちゃう」
「その方が俺自身も救われるってだけだよ」
出口が顔を上げ、微笑む。
「そっか。責めるような言い方してごめん。もうこの話は止めにしよ」
出口が持ってきていた大きめのトートから包みを取り出す。
「はい、これプレゼント」
受け取って包みを開く。
中身は新しい白衣。
「もうそれ、ぼろぼろだからさ」
俺がイードを興したとき、出口は白衣をプレゼントしてくれた。
「コンピューターのプロなら、やっぱり白衣でしょ」と言って。
当時流行っていたアニメの影響だと思うのだが、いつもみたいなボケではなく真剣に言っているのがわかったので断れなかった。
以来、俺はずっと白衣。
社会人としてどうかとは思うのだが、今やすっかりトレードマークになっている。
「ありがと。早速袖を通させてもらうよ」
「その代わり、いつも通り古いのは持って帰るね」
どうせ捨てるだけだからいいんだけど。
「そんなの持って帰ってどうするんだよ」
「溜まった古着の分だけ、イードが大きくなるのを実感できるようでさ」
こんな小さな会社でも、そんな風に思ってもらえるのは嬉しい限りだ。
社運を賭けた製品の名前に、自ら「イグジット」と名付けたのもこいつ。
アンチウィルスソフトはパソコンからインターネットへ繋がる出口そのものだから、社内も全員一致で賛同した。
なんだかんだとイード社は、こいつと二人三脚でやっているような錯覚すら覚える。
仕事をもらっているわけだから実際には錯覚どころか事実だったりする。
だけど決してそういう意味ではない。
出口が古い白衣を羽織るようにしてソファーに寝転がる。
「それじゃ寝る。おやすみ」
「おやすみ」
さて、俺はもう一頑張りしますかね。




