EP20:1996年7月1日「井戸君、合格ったんだ」
七月一日、人事院前の掲示板に張り出された国家一種一次試験合格発表。
俺の番号はあった。
しかし、行く手には暗雲が垂れ込めていた。
六月三〇日、農林水産省の「勝負所」。
「君に会って欲しい人」は秘書課の筆頭課長補佐だった。
全力は尽くしたつもりだったが、受付の返事は「明日、また来て下さい」だった。
内定部屋への拘束は掛けられず。
出口言うところのバッドエンドルートだ。
それでも一縷の望みを抱き、合格発表後は農水省へ向かった。
本日紹介されたのは企画官。
いわゆる課長クラスで昨日よりポストが上がっていた。
まだ終わっていないと入りたい熱意を必死に訴えた。
しかし面接後は「残念ですが、他の官庁をお回り下さい」。
ついに、はっきり、引導を渡された。
続けて環境庁へ。
三〇日の時点で言われたのは「次はいつでも構いません」。
一〇〇パーセントの断り文句。
だけど他に回るところもないので万一に賭けた。
もちろん結果は予想通りだった。
しかし行った収獲はあった。
受付は申し訳なさそうな顔をしながら「本日まで足繁く通ってくれた熱意に応えて」と、現時点での試験順位をアバウトに教えてくれたのだ。
「井戸さんの国家一種一次の成績は最終合格ボーダーラインよりも下です」
正確にはボーダーラインから最下位まで団子状態とのこと。
出口の話に基づけば、専門科目が簡単で差がつかず、逆に教養科目は難しくて差がつかずでそうなったのだろう。
俺を推す声もあったらしい。
しかしこれまで国家一種合格実績のないアホ大では不合格のリスクが高いため内定を出せないという結果になったという話だった。
ここまで話してくれるとは、なんて優しい環境庁。
落とされはしたけど回ったことに悔いは無い。
もしかしたら農水省もそうなのかもしれない。
一次の点数が足りないから拘束はしなかった、しかし迷ってたから上に判断を任せた。
そして環境庁と同じ結論に至った、といったところか。
学歴を直接差別されたわけではないけど、こんな形で響くとは思わなかった。
俺が合格確実な点数を獲れていたら済んだ話。
だけどヤマと勧が限界まで当たっての点数、これ以上稼ぎようがない。
悔やみたくても悔やみようもないのが幸いだ。
問題は、この後どこを回るにしても順位がネックになってくるだろうということ。
どうしたものか。
環境庁では「まだ間に合うところもありますから」と送り出してくれた。
わざわざ口に出したのは、きっと「その点数でも採ってくれるところはありますから」という意味なのだろう。
その言葉を信じれば労働省と文部省の二択ということになる。
この二つの官庁は今日から始まるので拘束者がいない。
つまり順位的に俺と同レベル同士での戦いだから。
さて、どっちから行くか。
日比谷公園の「松本楼」行って、カレー食べながら考えよう。
悠長にしている時間なんてないんだけど、このダウナーな気分引き摺ったまま面接に臨んでも失敗しそうだ。
──庁舎の外に出たところで、江田さんが通りかかった。
「井戸君、合格ったんだ」
なんて言い草だ。
しかも目を剥いて明らかに驚いている。
「今庁舎に入ろうとしたってことは江田さんもだよね。備前君は?」
「知らない。もう会うことないと思うし」
ひ、ひ、ひどい。
何が起こったか想像はつくけど、地雷とわかってるものを踏みたくはない。
とっとと去らせてもらおう。
「じゃあ俺はこれで──」
すれ違いざまに腕を組んできた。
「何をする!」
「わたし、これから労働省回るんだ。井戸君も一緒に行こうよ」
はい!?
「なんで俺が」
「いいじゃん。『合格者』同士、仲良くしようよ」
絡みつくような上目遣いで、腕にぐいぐい胸を押しつけてくる。
小さな童顔に似つかわしくない、たわわな弾力。
でも全く嬉しくない。
いや、それどころか……この女、怖い。
あれだけ俺を見下してたのに、合格したと知ったら扱いが変わった。
きっと江田さんにとって男は誰でもいい。
自分を褒めてくれそうで、言いなりになってくれそうで、ついでに飾りになれば。
そうやって甘えと承認欲求を充たしながら、獲物を見つけては蛇がごとくぬるぬる纏わりついて生きているのだ。
自己中なのは知ってたけど、なんておぞましい。
背筋にぞわっと悪寒が走った。
同時に、腕からブンと振り払う。
「何するの!」
「俺、労働省興味ないから。第一志望の宮内庁行ってくる」
それだけ言って、すたすた早足。
背後から江田さんの金切り声が聞こえてきた。
「宮内庁はコネしか採らないよ!」
知ってるよ、だから言ったんだ。
そうじゃないとついてくるだろ。
お陰様で、考えるまでもなく行き先が文部省に決まったよ。
それはそれとして、カレーは食べるけどな!




