EP13:1996年6月17日「だって僕、待合室のお菓子に釣られて農水省に入っただけだもん」
受付で庁舎の地図をもらい、蛍光ペンで四角く囲まれた課へ。
端っこには「平岡」と書いてある。
広くて迷うなあ。
部屋に入ると、課はガランとしていた。
みんながみんな残業しているわけではないらしい。
一人だけ机に向かって仕事している職員がいる。
あの人かな?
席に近づき、声を掛ける。
「失礼します。平岡さんでしょうか?」
「こんばんは、井戸君だね。そこに掛けて」
示された隣の席に腰掛けると、入れ替わりに平岡さんが立ち上がった。
何たる巨体。
顔はふくよかで体はでっぷりしてる。
「コーヒーとお茶、どっちがいい?」
「あ、コーヒーでお願いします」
「ちょっと待っててね、入れてくるから」
ずしんずしんと部屋の隅へ歩いて行く。
迫力だなあ。
──目の前にコーヒーカップが差し出される。
「こんな暑いのにホットでごめんね。インスタントしかなくってさ」
「いいえ、お構いなく」
それどころか、お茶を入れてくれるだけでもびっくりした。
当たり前の御客様扱いされるのがこんなに嬉しいなんて。
自分で思ってる以上に、厚生省の一件はトラウマになってるっぽい。
平岡さんがにこやかに名刺を差し出してくる。
「平岡です。経済職で採用され、今年で三年目になります」
名刺を見ると「係長」の肩書。
さすがキャリア、出世が早い。
「井戸です。よろしくお願いします」
ペコリと一礼。
しかし頭を上げると、平岡さんが険しい顔をしている。
俺、何かやった?
……と思ったら、全然想像もしない言葉が飛び出した。
「大丈夫? 顔強張ってるよ?」
「えっ?」
「まだ官庁訪問の序盤だから、慣れてなくて緊張するのはわかる。でもせっかく遊びに来たんだから楽しまないと」
「『遊び』って……これ、面接ですよね?」
「同じだよ。ガチガチになって黙りこくってる人と一緒に働きたいなんて思わないもの」
「は、はあ……」
平岡さんが再び立ち上がった。
「とりあえず上着脱いじゃおっか。ほら貸して」
ええっ?
言われるままに脱いで渡す。
平岡さんは脇のハンガーに上着を掛けると、ネクタイを緩め腕まくりをした。
「井戸君もネクタイ緩めちゃいなよ」
「御言葉に甘えます」
「そうそう。こんな暑いのにネクタイなんかまともに締めてられないって」
今度はハンカチを取りだし、額の汗を拭い出す。
俺をリラックスさせようと全力で気を使ってくれてるのがわかる。
平岡さんって本当にいい人だなあ。
これはきっと言葉通りに信じていいのだろう。
そう思うと自然に顔の筋肉が緩んできた。
「うん、いい感じ。それじゃ話に入ろうか」
「はい!」
平岡さんが訪問票を手に取る。
「志望動機は『食は国民生活の根幹だから守りたい』ね。僕もそうだったなあ」
「そうなんですか?」
「だって僕、待合室のお菓子に釣られて農水省に入っただけだもん」
「はあ!?」
「待合室、飲み物も食べ物もいっぱい置いてあったでしょ」
「はい。存分にいただきました」
「僕もだよ。本当は農水省なんて全然興味なかったんだ。でもお菓子目当てで通うようになっちゃってさ。先輩達も他の官庁と違って全然気取って無くって、人良さそうで。ここならずっと働けそうだなあって、そのまま入っちゃった」
なんてお気楽な。
でも、このふくよかぶりからすると絶対に本当だ。
「そんなのでいいんですか?」
平岡さんの声のトーンが少し低くなった。
「省庁の業務を重視するのはもちろん大事。でも僕は相性が一番大事だと思ってる。ただですら激務なんだから、嫌いな人に囲まれるより好きな人に囲まれて仕事したいもの──」
再びトーンが軽くなる。
「──だから井戸君も先入観にとらわれず、色んな省庁回って自分に合いそうな所を見つけるといい。もちろん農水省を気に入ってもらえれば、僕は嬉しい」
そういう考え方もあるか。
でも、確かに平岡さんは好きになれそう。
逆に厚生省では郷原補佐やエリート眼鏡さんと一緒に働きたいなんて絶対思わない。
確かに人で選ぶのもありなのかもな。
「今の時点でも、また訪問したいなって思ってます」
「あはは、ありがとう。じゃあ僕のやってる仕事について説明しようか」
説明の後は、食べ物の絡んだエトセトラ。
本当に雑談だなあ。
……と思っていた。
しかしそうでないことがわかる。
「井戸君も『美味しんぼ』の『日米コメ戦争』読んだことあるんだ。だったら米の輸入自由化についてどう思った?」
「米は日本人の命。絶対に守らないといけないと思います」
ついに「農水省の面接」らしい問いが切り出された。
しかし考えるまでもなく、俺の口からは答えが飛び出していた。
米に対する日本人のこだわりを描いた回なのだから、こうとしか答えようがない。
「だよね、僕としてはさ……」
持論を展開させてから「君はどう思う?」と振ってくる。
こうして導いてもらえるなら、俺でも手持ちの知識で答えられる。
きっとフランクな話題を振りながら、俺に向いた話題を探ってくれてたんだろうな。
「僕の面談はこれで終わり。お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
「また待合室にお菓子食べに来てね」
「ぜひ!」
──再び受付へ。
「次回の訪問はいつにする?」
ああ、次回のアポイントメント入れさせてもらえるなんて。
出口によると、この台詞を言われている内は切られていないらしい。
厚生省では「二度と来るな」とまで言われたのに。
アホ大でもちゃんと一人の学生として扱ってくれているのがわかる。
なんて優しいんだ、農林水産省。
「私は明日でも大丈夫ですが……どれくらいの間隔で回った方がいいんでしょう?」
「さすがに毎日とは言わない。ただ詰めて回ってもらった方が嬉しいかな。都合が合うなら明後日でどう?」
「はい、お願いします」
「あと、本気で農水省を志望してくれるならもっと早い時間に来た方がいい。今日は遅かったから一人しか紹介できなかったけど、本来なら一日三人くらい会ってもらうから」
「わかりました」
「じゃあ午前一〇時でいい?」
「大丈夫です」
立ち上がると、後ろで出口が待っていた。
「お疲れ様。じゃあ、これからゆっくりディナーしよっか」
おい。
さっき山ほど食べたお菓子とおにぎりは何だったんだよ。