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君だけの青春が、ここにある  作者: 天満川鈴
前章:21年前
12/31

EP12:1996年6月17日「じゃ、本命は?」

 厚生省よりは少し狭めの会議室。

 受付で名前を記し、訪問票を受け取る。


「こんな時間でも受け付けてるんですね」


 時刻は夜の七時半。

 庁舎に入る時にはすっかり日が落ちてしまっていた。


「みんな真夜中まで働いてるし、終電過ぎるまではまだまだ昼間さ。もし井戸君が我が省に採用されたら時給五〇円の生活が待ってるよ」


 感覚が違いすぎる。

 恐るべし農林水産省。


 ……というか、なぜ農林水産省?


 結局、出口は庁舎を目の前にするまで教えてくれなかった。

 つまり「いいところ♪」が農水省と知ったのはたった今。

 そして「いいところ♪」な理由は未だに聞かされていない。


 待合スペースに向かい、先に受付を終えていた出口の隣に座る。


「そろそろ農水省が『いいところ♪』な理由を聞かせてもらうぞ」


「わかってるよ。ちょっと待ってて」


 出口は立ち上がると会議室の隅へ。

 そして両手に大量のお菓子、おにぎり、ペットボトルのお茶を抱えてきた。


「はい、どうぞ。これが理由」


「ありがと、って……なんでこれが理由?」


「農水って食を司る役所だからさ、会議室に大量の食べ物置いてくれてるんだ。これだけあれば満足できるでしょ?」


 ルノアールで夕食頼もうとしたら止められたのは、これが理由か。

 「もっと遅い時間に二人でゆっくりディナーしたいからさ」は全くの嘘じゃなかった。

 でも「これだけあれば」どころか食べ切れねえよ。


「返してこい。他の人も食べるんだろう?」


「大丈夫、なくなってもすぐに補充してくれるから。んー、お煎餅おいし」


 俺もおにぎりを手に取る。


「確かに『いいところ♪』には違いないな。食費浮いて助かる」


「でしょ? 食べ放題の飲み放題目当てで農水回る人って多いんだよ」


 そこまでか。

 ただ厚生省では飲み物すらなかった。

 それだけに学生をもてなそうという姿勢は伝わってくる。


 だがしかし。


「まさかあれだけもったいぶって、これだけが理由ってことはあるまい?」


「理屈っぽい人は嫌いだよ」


「俺よりお前の方が以下略、真面目に答えろ」


 出口が煎餅をポリッと囓る。


「農水省は学歴まったく関係なしで採用活動してる省庁なんだ」


「そうなの? というか、試験さえ合格れば学歴関係ないんじゃないの?」


「それは建前。実際には学歴フィルター掛けてる官庁もある。しかも内々定は一次合格発表直後に出されるんだから最終合格するかどうかなんてわからないじゃん」


「なんてこった」


「でも農水省は学歴関係なく上の段階に進めてくれてる確かな情報がある。恐らくキャリア採用枠が他より大きい分だけ多様な人材を採用できるし、するつもりなんだと思う──」


 にこりと笑う。


「──出口には勝ち目あると思うし、『いいところ♪』でしょ?」


 「いいところ♪」どころか、厚生省で受けた扱いを思い返したら天国。

 チャレンジできるだけで上等だ。


「ありがと、ちなみに学歴フィルター掛けてる官庁は?」


「自治省が東大京大一橋以外は門前払い。それより訪問票早く書きなよ」


 おっといけない。


 まず志望動機の欄を見る。

 ルノアールで出口に言われたのは「もし面接マニュアル本を読んでるなら、マナーのところ以外は捨てろ」だった。

 官庁は民間と違って志望動機をさほど重要視しないらしい。

 俺の厚生省みたいに「母子家庭だから」というのは自然な動機だからいいけど、とってつけた長々しい志望動機書くくらいならシンプルな方がいい。

 小賢しく見える分、かえってマイナスとのことだった。


【私が農林水産省を希望するのは「食を司る官庁」だからです。食は国民生活の根幹。全力で守らないといけないものだと考えています】


 出口に見せる。


「こんなもんでいいの?」


「OK。ボクも似たようなものだよ、ほら」


 見せてもらう。

 言い回しが違うだけで内容そのものは全く同じ。


「自然な志望動機なんて、家が農家か親が農水省勤務じゃないと無理だよな」


「そういうこと。どこの官庁でも『国民のため』に働くのは間違いないだろう。だからパンフ見て先方の好きそうな言葉を抜き出して、最後にそうつなげておけばいい」


 なるほどなあ。


「でも厚生省ではぼろくそ言われたぞ」


「あれは志望動機が悪いんじゃない、井戸の受け答えがまずかったんだ」


「どういうこと?」


「『困っている人がいるから援助を増やす。それで済むのなら誰でも官僚が務まりますよ』と言われたんだよね」


「うん」


「そこで返すべき答えは『困っている人を助けたいと思うのは、人として当然の発想ではないでしょうか』じゃなく『もちろんです。実現するには様々な問題が伴います』。そして先方が続きを促してきたところで、問題点と必要な政策をプレゼンテーションする」


「できるか!」


「でも説明されたら気づいたんでしょ? 井戸の感じた通り、嫌味なエリートさんの言ってる内容自体は間違ってない。厚生省が第一志望じゃないボクですら、それなりの受け答えはしてるわけだしさ」


 あれ?


「厚生省が第一志望じゃないの?」


「そんなこと言った覚えないよ。声掛けてくれた人の顔立てて本命の後で行っただけ」


「じゃ、本命は?」


「後で話すから早く訪問票書きなよ。やるべきことを優先させないとね」


 はぐらかされてしまった。

 でも後で話すというのだから後で聞こう。

 他の欄を埋めて、受付に提出する。


 席に戻ると出口は本を読んでいた。

 どんなの読んでるのか、背後に回る。

 本の中身は英語と数式のオンパレード。


「その本、何?」


「ブランチャード&フィッシャーの『マクロ経済学講義』」


 えーと……。


「二次試験対策?」


「友達に勧められたから暇潰しに読んでるだけ。でもわかりやすくて面白いよ」


 全部英語のどうみても難解な教科書を「暇潰し」とか「面白い」とか。

 こんな勉強できる超絶美少女、一人称「ボク」よりハードル高いと思うんだが。

 俺も自分にやれることをやろう。

 お煎餅をくわえつつ、経済職受験者のバイブル「入門マクロ経済学」を開く。


 ──名前が呼ばれる。


「井戸さん、いますか~?」


「はーい!」


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