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「98……99……100!」
麗華は腕立てを終え、タオルで汗を拭う。
長い髪をポニーテールにして汗を流す姿は異性だけでなく同姓の目も引くことだろう。
もっともそんな自覚のない麗華には関係のないことである。
筋トレは入院中から行っており、少しでも強くなる為に欠かさない。
当初はリハビリとして軽い運動しかしてこなかったが、医者からのお墨付きを貰ってからは同年代の運動部くらいは鍛えている。
しかし、モヤシだった日にちが長過ぎて普通の女の子と変わらない筋肉量である。
「今日のノルマは終了……あとは軽く型ををやるか。」
そう言って麗華はトレーニングルームを後にする。
麗華の実家は豪邸とは言えないが、様々な施設がある。
父の明夫は周りに物を置きたくない質で一般家庭より施設が充実している程度に済んでいる。
それでも普通の家庭にはトレーニングルームやシアタールームはないので贅沢と言っても差し支えないが、そう言うと明夫は怒るので周りの人間は言わないようにしている。
麗子や麗華がそう言っても明夫は何も言わなかった。
獅子堂家のパワーバランスは女性に片寄っているのだ。
「うん、良い芝生。これなら変な癖も付かない。」
広すぎる庭を手で確かめた後、麗華は深く息を吐く。
そして、ゆっくりと身体を動かす。
端から見れば太極拳のような動きだが、これは研究所で教えられた武術のノウハウをいっしょくたにした動きだ。
有り体に言えば、我流。
だが、その実は全てを効率化した動き、呼吸、気の練り方。
身体に染み付いた動きをただひたすらに繰り返す。
派手な動きはないが、筋トレの時よりじっとりと汗をかいている。
「こほぉ。」
まるで暗黒面のような声を出して麗華の型は終わった。
身体が軋む心地よさを感じていると、視線を感じた。
「お母さん。」
「あら、バレちゃった?」
いたずらがばれたような茶目っ気たっぷりな麗子が舌を出していた。
やっぱり若い。
どう見ても麗華の姉にしか見えない。
これで一児の母だと誰が信じるだろうか。
麗華の年齢から考えると歳は少なくとも三十...
「麗華ちゃん? それ以上はダメよ。」
思考を読まれたことに驚く麗華。
研究所には相手の思考を読むことに長けた人間もいた。
麗子はその類いの人間なのかもしれない。
「そんなに警戒しなくても……昔はママの後ろをよちよちと付いてきてたのに……はっ!これが反抗期ね!」
「お母さん、呼び方については病院で言ったはずです。さすがにこの歳でママは恥ずかしいです。」
幼い頃から研究所にいたせいで甘え方を知らなかった。
お母さんと呼ぶのにも気恥ずかしさを感じている。
麗子さんと呼ぶと悲しい顔をされたので、仕方なくお母さんに落ち着いたのだ。
ちなみにお父さんのことを明夫さんと呼ぶと泣く。
「ぐすん。それにしても今の動きは見事ね。圧倒されちゃった。」
「もしかしたら、この心臓がこういうことをしていたのかもしれません。」
麗子の目に動揺は見られない。
ちょっとかまを掛けたのに残念である。
「何か必要なものはある?」
麗子は先ほどの型には続きがあることを察したようだ。
確かにあれで無手の型は終わりだ。
「では、武器になるものを粗方。」
「わかったわ。それじゃあ、お風呂にしましょうか!」
麗華は頬が引きつり、麗子の口角は嬉しそうに上がる。
冗談かと思ったが、その顔には拒否は許されないと書かれている。
「その、初めてなので......優しく。」
「ふふふ、ちょっとママムラっとしちゃったわ。男の子の気持ちってこういうものなのね。」
この日麗華は自分の身体がとても感じやすいことを知った。
具体的なことは言えないが、麗華は自分が女であることを自覚したのだった。
ーーーー
「麗華……麗華はまだ来ないのか……。」
麗華とちょうど入れ違いになった明夫は学校のフェンスから校内を覗いていた。
病み上がりの彼女をほっとけるほど明夫は大人ではなかった。
ましてや、大事な一人娘である。
今までは麗子の言われるがままに放任主義を貫いていたが、心臓移植の際にその大切さを自覚した。
出来れば麗華と一緒に学校に通いたいくらいであった。
しかし、そこまですれば麗子に何を言われるかわからない。
愛するが故にその怖さも身に染みているのだ。
「明夫様。どうやら麗華お嬢様は既に帰られたようです。」
「そうか……一目でも見れれば良かったのだが。」
明夫がここまでするのには理由があった。
先方から急に連絡が入り、今日の夕方から出張しなければならないからだ。
「必要な荷物はこちらで用意しています。車で空港へ向かいますので乗って下さい。」
「ぐぬぬ、家で大人しくした方が麗華と一緒にいられたのか……少しでも長くいたいという欲をかいたせいでこんなことに。」
家族に対しては失敗が目立つ明夫だが、その手腕は超一流である。
この悔しさをバネに明夫は多大な利益を自社にもたらす。
それもこれも全ては愛故に。
愛に生きる明夫、四十歳は愛(娘)を見失う。