Exciter
1986年4月。レコード会社Red Wing に所属した俺たちDarwinの担当は、邦楽を扱う部門の内藤香澄さんという女性プロデューサーだった。
初対面の内藤さんは茶色に染めた髪をアップにして、黒のパンツ型のスーツに黒いパンプス。
太目に整えられた眉と鋭い目つき。
一文字に結んだ唇には真っ赤な口紅がすごい存在感で、第一印象は強そうな黒い虎。
初日の今日は朝からメンバー全員会社に呼ばれて、いろいろな説明や顔合わせとミーティングがあった。
会社の方針とかの話から始まって、今後の活動の話でライブをどこでどんな内容でやるとか、
新譜CDの製作に向けて音楽プロデューサーを紹介するという事や、CDのテーマや新曲を練っていくこととか気合が入る内容だった。
「秋本君はもう少し声の特長を伸ばしたいから、今後ボイストレーニングを受けてもらう」
と言われて俺はどんなレッスンをするのか興味が湧いた。夕方までのミーティングが済んだところで内藤さんが
「じゃあ気合い入ったところで今日は終了。焼肉行くよ」と言った。
「え、焼肉ですか」と肉をこよなく愛するユッケのテンションがわかりやすく上がった。
揃って焼肉店に連れて行ってもらい、すごくうまい肉を食べながら札幌の頃の話とかをして、内藤さんはタバコをバンバン吸いながら赤ワインを豪快に呑んでいた。やっぱり獰猛な黒い虎みたいにしか見えない。
「この肉、すっごくうまいです」と肉に正直なユッケのテンションもさらに上がる。
「伊東君は正直でいいねえ。向井君はお酒何か呑まないの、実家は結構日本酒もいいの置いてるでしょう」
と内藤さんはケンに言った。内藤さんは札幌にあるケンの実家の寿司店を知っていて、何度か来たこともあるそうだ。
「僕は酒に弱くて呑めるのはビールくらいです。今日はやたらうまい肉に集中させてください」とケンはスマートかつ爽やかにかわした。実際のところケンは結構呑めるけど、今日はメンバー誰も突っ込まなかった。
まだ初日だし慎重に行く。スマートなケンのこの返しは今後の参考にしようと思った。
「ボイストレーナーとアポが取れたから、この後秋本君は私と一緒に来なさい。今日はここで解散」
と食事の締めに内藤さんは言って店を出たところでメンバーと別れた。
「ロック好きなオカマがやってるバーに行くよ。そこで会うから」と内藤さんが言った。
「オカマの人ですか」これまで俺はオカマという人達には会ったことがない。
いや、男子校だった高校の頃に話し方や仕草が女っぽいなあって奴は何人かいたけど、実際どうだったのかはわからない。予備知識がなさすぎる。
今日は未知の世界に叩き込まれて、行くところ全て新しい場所で緊張も解けない。
この後、どんな世界が待ってるのか。
夜の東京は札幌の4月とはまるで違って湿度があり、空気は少し重たく感じて肺いっぱいに吸い込めない気がする。
「トレーナーがまだ他でレッスン中なの。だから少し待つよ」
内藤さんはユニオンジャック柄の看板灯を出してる店の前で足を止めた。
看板には黒字でExciterと書かれていた。
Judas Priestかな。
店の扉は黒で、ここにもユニオンジャックがペイントされている。
ハードロックが好きなマスターを想像したら少しホッとした。
「ここですか」
「そう」と言われると、俺は反射で扉を開けていた。
あ、今日は俺が連れられて来たんだった。
一応内藤さんに「どうぞ」と言うと、
「へえ、エスコートしてくれるの」と目を細め真っ赤な唇でふっと笑って先に通った。
カウンターにいたのは、束ねた金髪にピチッとしたピンクのTシャツとジーンズ姿の男性で、
俺が入るなりきっちり上から下まで凝視して甲高い声で言った。
「うわあ内藤ちゃん。この綺麗でカッコイイ子だあれ」
「今度うちからデビューさせるロックバンドのボーカルだよ。秋本洸」
と言った内藤さんが俺の右腕を撫でるように触れた。
俺が自己紹介すると「さんずいに光、で洸ちゃんね。私、ママの翔ちゃんよ。よろしくね」と男性は言った。
マスターじゃなくてママなんだ。この人幾つくらいなんだろう。
でも普通の男の格好だし、これがオカマの人なのか。女言葉だけど意外と違和感がない。
「洸ちゃん、幾つなの」
「18です」
「若いわねえ」とママが満面の笑みでソフトドリンクのメニューを見せてくれて俺はコーラを注文した。
「洸っていい名前ねえ。あなたそのものよ」
「そうですか、父方の祖父が名付けてくれたんです」
「そう、光の海の中でさらに輝く光。色っぽい名前よね」そうママは言って
「洸ちゃんて何かセクシーだわ。女の子にも男の子にもモテそうよ。彼女はいるの、それとも彼氏」と聞かれた。
彼女がいます。札幌に。そう、でもなぜか即答できない。
去年の冬、目一杯の、でも実力不足のプロポーズは届かなかった。
けれど俺の心の全てで愛してるって言える彼女がいます。今はいつって言えないけど必ず、夢を現実にして隣に立つ。
目線を落とすと左手首につけた黒いビーズのブレスが見えた。未希が作ってくれたブレス。
サクッと答えられないのは多分俺が今の自分に自信がないのもあるけど、
何だかこの領域には、絶対誰にも踏み込まれたくないんだ。多分俺の心の一番大事な場所だから。
うまく返せないままに顔を上げるとママがチラッと流し目を送って来て
「ねえ洸ちゃん、古いハードロックのLPたくさんあるのよ。何か聞きたいのある」と言った。
俺が言葉を返そうとすると、内藤さんがウイスキーをロックで呑みながら
「正直に言いなさいよ秋本洸。いるの、ガールフレンド。意味わかる」
と遮って片方だけ眉と口角を上げて笑った。目がトロンとした感じになってる。
この人酔って俺をからかってるな。わかるけどあなたに関係ない。
でも、とっさに反感はしまい込んだ。
俺は心に鋼鉄製の記憶を収納する大金庫をイメージして、その重い扉をガシッと閉じてロックすると
「札幌に彼女います」と答えた。
「ふうん、秋本くん童貞じゃないわけだ」内藤さん、酒癖悪いな。絶対下ネタに持ち込まれたくはない。
「やあだ内藤ちゃん。洸ちゃんはノンケの彼女持ちなわけね。ざんねーん。はいお水飲みなさい」
とママは内藤さんのグラスを取り上げ水のグラスに替えると、別のスタッフと俺にウインクした。
ここのオカマの人達は多分俺の味方をしてくれている。心の中で感謝した。
「洸ちゃん、リクエストは」
「じゃあExciter。お店の名前になってる曲」
「あら、洸ちゃんJudas好きなの」
「前にコピーで演ってました。すごく好きです」翔ちゃんはさっとLPを見つけ出すと掛けてくれた。
これこれ、と翔ちゃんも俺も気分が上がって意気投合し、それからしばらく翔ちゃんとロックの話やDarwinの話をした。そうしてると緊張が解けて自分が戻って来て、やっと笑える気がした。
内藤さんは別の男前な若いスタッフと話し込んでいた。しばらくして、
「内藤さん、お待たせして申し訳ありません」と言いながら別の男性が店に入ってきた。
その人がボイストレーナーの薬師寺さんだった。
「やっクーン」と翔ちゃんが黄色い声を挙げて、ピョンピョン飛び跳ねて大歓迎していた。
薬師寺さんはウェーブした短髪で男前だし、鍛えた感じの引き締まった体つきはユッケに似た雰囲気だった。
ユッケもひょっとしたらこの業界で人気があるかも。確実に面食らうだろうけど。
薬師寺さんは、内藤さんと話してから俺のところに来た。
改めて挨拶すると優しそうな人だった。
でも翔ちゃんほど露骨ではないけど、また上から下まで見られた。もしかしてこの人もオカマの人なのか。
薬師寺さんは胸の前で両手の指を組み合わせると、
「秋本洸君ね。僕は薬師寺誠と言います。これからよろしくね。君、綺麗な顔立ちしてるねえ」
と熱い感じで言って来て、違いないと俺は確信した。