ライラックの香り 1
今から一年前の1990年6月の札幌。土曜日の夜9時をまわっていた。
両親は出かけていて、私が仕事から帰って家で過ごしていたら居間で電話が鳴った。
彼氏からかなあ、と思いながら受話器を取った。
「はい、秋本です」
「あ、聖美さん。お久しぶりです、祐介です。夜分に突然すみません」
「あれ、祐介。本当に久しぶりだね。どうしたの」
電話は私の4つ下の弟、洸の幼馴染で親友の伊東祐介からだった。
洸や彼の仲間はユッケというあだ名で呼ぶけど、私は家族が呼ぶように昔から祐介と呼んでいる。
「あの、自分今札幌に戻ったんですけど、聖美さんがよかったらこれから少しだけ会ってもらえませんか」
祐介の声が緊張した感じに聞こえる。
「札幌に来てるの、1人で」
「今は自分だけです」
祐介は洸もいるハードロックバンドDarwinのリーダーで、バンドがプロデビューして以来4年間東京で暮らしている。
でも洸からは今日札幌でライブがあるとか戻るという連絡は来ていなかった。
神妙に自分とか言って、祐介は妙に丁寧な口調だし少し元気がないみたい。
祐介の家とは昔から家族ぐるみの付き合いだけど、家で何かあったと言う話も聞かないし、バンドもメジャーデビューしてから今は絶好調でライブが立て込んでるはず。
「祐介元気ないよ。何かあった。洸は何も言ってこないけど」
「あ、いや。俺個人の急用だから。今日ライブ終わってから飛行機で来て、実家にも言ってないんで」
そういえばそうか。今夜うちの両親は祐介の両親と一緒に食事とカラオケしに行ってるんだもの。
今日急に飛行機でって、何があったの。
「祐介、急にどうしちゃったの。今どこ」
私は彼の様子が気になって、ベランダに面したカーテンを開けて外を伺った。
「あの今、象の公園とこの公衆電話です」と祐介が言った。
象の公園っていうのはうちのすぐ近くにある象を形どった滑り台がある児童公園だ。
なんだ、近くに来てるんじゃない。
「今行くね」
「待って聖美さん。行っていいなら俺がそっちに行きます。これから行きます」
と焦った感じで祐介が言ってプツッと電話が切れた。
私も電話を切って外に出るとすぐに祐介が走って来て、目の前で立ち止まった。
けれど黙って背の高い体を少し丸めるようにして、どこか心細げな困り顔で突っ立っている。
祐介のこんな顔は初めてで私は心配になった。
「ねえ祐介、何があったの」
しばらくの間、困り顔の祐介は黙っていたけどやがて口を開いた。
「聖美さん、あの俺」と少し下を向いたけど、すぐに顔を上げて目を合わせると言った。
「俺、聖美さんがいないとダメなんです。昔から洸と一緒に弟みたいによくしてもらって、いつも嬉しかった。だけど、本当はずっと前から好きでした。それが言いたくて、もうどうしようもなくなって来ました。弟としてじゃなく俺を見てくれませんか。俺と付き合ってもらえませんか」
祐介、それを言うために今夜来たの。
なぜ今なの、ああどうして今になって前触れもなくそんなこと言うの。
すごく動揺して、私は指先が微かに震えた。
落ち着かなきゃ。
祐介に言わなきゃならない。
「祐介、気持ちわかったよ。でも私、今彼氏いるんだ」
祐介はハッとした様子で眉を寄せた。でもすぐに表情を引き締めると、
「そうか。いや、そうですよね。急に来てすみません」
そう潔く言って気遣うように笑顔を向けてくれた。けれど逆にその大人びた笑顔に私の胸が強く痛んだ。
「あの、急に遅くにすみませんでした。失礼します」
祐介は踵を返して足早に歩き出した。
行っちゃうの、祐介。なぜかこれっきりもう会えなくなる気がする。
さっき見せた笑顔から祐介の今の覚悟が伝わって来た。
私に向けられた背中をこのまま見送ってしまったら、きっともう会えなくなる。
「待って。祐介、待ってってば」私は駆け出して祐介を追いかけ、シャツの袖に触れるとその腕を掴んだ。
祐介はとっさに私の手に触れて引き離そうとした。
けどそうせずに振り返りざまに私の手を掴んで引き寄せると、そのまま私を抱きしめた。
さっきの大人びた笑顔は消えて、再び困惑と切なさのにじむ祐介の顔が一瞬視界に入って、
背の高い広い胸に私はすっぽり包まれた。
「聖美さんごめんなさい。でも、ずっとこうしたかった。ずっと」掠れた声で祐介が言った。
いきなり来て驚かせて、こんなことして祐介。
「もう。あんたは間が悪い。どうして、ひどいよ。ひどい」そう私が言うと祐介が少しだけ笑ったのがわかった。
「なに笑ってるの、もう」
「ううん。俺やっぱり叱られたから。ごめんなさい」
そう言ったけど、祐介はそのまま腕を解かなかった。
風に乗ってほんのりとライラックの香りがする。
祐介離して、と言えばいいのに言えないまま私は彼の腕の中にいた。