20時までの一時間 1
1991年6月。
一昨日、洸が5月に受けてくれた適合検査の結果が出て、私は洸から血縁者間骨髄移植を受けられることがわかった。これからの治療が順調に行けば、今月の終わりに洸が医大病院に入院して、移植が行われる。
洸のおかげで私の生きる望みは繋がれた。
でも、これから私自身が移植の準備となる治療を受けて、乗り越えなきゃならない。
簡単には移植を受ける側が、自分の体の免疫の攻撃力をギリギリまで下げておくことで、移植が成功しやすくなるということらしい。だから治療は相当に過酷なものになる。けれど成功してほしい。
また抵抗力が落ちて面会も難しくなるんだろうな、家族や祐介とも。
数日後には治療が始まることになっているから、それで祐介はまた急ぎ時間を作って、今夜会いに来てくれた。
「ああ、遅くなった。ごめんね」そう言うと祐介はそばに来てベッド脇の椅子に腰掛けた。
今夜はまた東京から来てくれたけど、千歳空港に着く飛行機が遅れて、今は19時を回っていた。
面会時間は20時までだから後1時間もない。それでも、1時間だけわたし達は会えるんだ。
祐介は私の左手を取り、少し眉を寄せるとマスクを避けて一瞬だけ指先に唇を当てた。
病気をしてから痩せた私の手は、以前より骨ばった感じになっている。
私の辛さを祐介は感じ取ろうとしてくれる。今の私が弱気を見せたら祐介まで傷つくのがわかる。
祐介は両手で私の手を包むようにして、しばらく握っていた。
そして、少し下から私の目を見あげると静かに言った。
「聖美さん、愛してます。俺と結婚してください」
私の手を包み込んだまま、その手に祈るような形で体を折り曲げて、祐介は額をつけた。
そうしてガウンのポケットから、濃紺のベルベットのケースを取り出すと蓋を開いた。
中心に置かれた銀色に光るリング。
それは穏やかな波のような形をしていて、銀の波の中心にある星のような輝きが目に飛び込んで来た。
きれい。
急激に視界が滲んで、私は「祐介」と言うのが精一杯だった。
これ、エンゲージリング。これを今の私にくれるの。
嬉しい、心から。でも、同時に悲しい。
「私も祐介を愛してる、愛してるよ。でも、今の私にできることじゃないよ」
必死で気持ちを抑えたけど声が震えてしまった。
祐介は黙ったままで、いつか見覚えのある少し悲しげな困り顔をしてる。ああ、そんな顔しないでよ。
「私、いつかうちに帰れるようになるかもわからないし、だいたい治るかどうかもわからない。今、ギリギリのところにいるってわかってる。今だって、祐介と…」
涙まじりの言葉が途切れてしまう。
「キスもできない、じゃない…」
「でも俺、今日聖美さんに逢えて幸せだよ。いつだって、顔が見れたらそれで幸せなんだよ」
祐介は困り顔なのに、逆に穏やかにそう言って、私の背中をさするように撫でてくれた。
寝間着の上からでも、彼の手のひらの暖かさが広がっていく。
「今よりもっと白血球が減ったら、また面会も厳しくなっちゃう。私が祐介にできることなんて、もうほとんどないのかも知れないよ」
「聖美さん、今は俺の番でしょう。俺はこれまでずっと甘えさせてもらって、彼女になってもらって。
でも俺には甘えてくれないの、甘やかすチャンスをくれないの」
そう言って、背中に手を置いたまま祐介は首を傾げて、うつむいた私の目を覗き込んだ。
困り顔はもう消えて、優しく微笑みかけてくれる祐介がいた。
初めて会った頃は幼かったのに。
もう来月には彼が24歳になり、私は8月に28歳になる。なれれば、だけど。
「聖美さん、どんな形でもいい。ただ俺と一緒に生きるとだけ言って欲しい。どうか、俺と結婚してください」
今度は訴えるようではなくて、まるで言い聞かせるように祐介は私に言った。
やっぱり祐介は間が悪いよ。どうして今、そんなこと言うの。
いいや、それは違うよね。今度間が悪いのは私の方だったね。
確かに私に残されている時間には限りがあるかもしれない。だとしたら、無茶かもしれないけど、祐介にその時間を渡したい。
私にできることを祐介のために、こうして会える日々を、話して見つめ合う時を渡したい。
そう思ったら、すっと気持ちが素直になった。
「祐介、私の方こそよろしくお願いします」
そう言うと彼は微笑んで、ケースから指輪を取ると左手の薬指に嵌めてくれた。
指輪は少し大きくて、「ごめんね。体調が良くなったら直しに行こう」と彼は言った。
体調が戻ったら、今より太ってちょうど良くなるかも。そう私は期待していた。
指に光る指輪の輝きに未来を託して、祐介との未来を能天気なくらい期待していよう。
「祐介、聖美って呼んでほしい」
そう言ったら祐介はとても照れ臭そうにしたけど、いつもの笑顔になって
「愛してる。聖美」と言ってくれた。




