行かずにいられない
1990年6月。
今日の東京は梅雨の晴れ間だけど湿度が高い。
天気予報によると札幌の今日は、晴れ時々曇りでライラック祭りが始まっている。
上京して4年が経つけど、俺は札幌の天気をチェックする癖が抜けない。
今日はマリアからホームパーティーに誘われていた。
マリアが友達のモデル2人と一緒に暮らしているアパートのフロアは広く、高い天井は開放感がある。
レコード会社と契約して俺たちのバンドDarwinが東京でライブをやるようになってから、よく聴きに来てくれる外国人の女の子がいた。
彼女は会社関係のカメラマン芳賀さんの知人でウクライナ出身の20歳のモデル。それがマリアだ。
俺のファンだと言ってくれて、ライブでは「ユッケー」と呼んで応援してくれる。
とにかく華奢で、長い金髪に透けるような白い肌と褐色の瞳が綺麗な子だ。
マリアの友人でエリノアという同じモデルの子もよく来てくれる。
彼女も華奢で黒髪に褐色の瞳の綺麗なおとなしい子で、うちのドラマー、ケンのファンだ。
ケンはエリノアからパーティーに誘われて俺と一緒に来た。
「ユッケー、ケン、来てくれてありがとう」と笑顔でマリアが迎えてくれた。
「こちらこそ呼んでくれてありがとう」俺とケンは花束とお菓子を渡した。
パーティーは、来れるメンバーが入れ替わり立ち替わり参加しては帰るスタイルで気楽だった。
「マリアは黒髪で男っぽいユッケがカッコいいって。空軍にいる彼女のお兄さんみたいだってさ」とマリアを紹介してくれた芳賀さんが俺に言った。
「え、マリアのお兄さんて軍人だったんだ」
マリアがワインのグラスを2つ持って俺の隣に来て、1つ手渡してくれた。
「ユッケーどうぞ。私とエリノア、ペリメニとサラダ作ったよ。クッキーも」
「ペリメニ、俺初めて食べたよ」
「ユッケー、美味しい」
「うん、うまいよ」と答えて俺はふと洸の家で餃子を作って食べたことを思い出した。洸と洸の家族と。
「ねえユッケーはいくつなの。札幌から来て名前は伊東ユースキー」
マリアは真剣だけど、俺の名前面白いことになってる。
「年は22だよ。名前は、ゆ、う、す、け。でもユッケでいいよ」ふと気づくと今年の誕生日がもう過ぎていた。
そう、だから22だ。
「ユ、ウ、ス、ケ。ユッケー大好き」とマリアが微笑んで言った。
ケンが向こうからチラッと視線を投げて来た。いい感じなんじゃないの、とケンの目線がそう言ってるようだ。
俺は伊東祐介。ハードロックバンドDarwinのリーダーでベース担当。
祐介。上京してからそう呼んでくれる人は周りにいなくて大抵ユッケ、か伊東君とかだ。
祐介と呼ぶのはうちの家族か洸の家族、だいたいは聖美さんだ。
「今度、ワタシとユッケーと2人であそびたい」
とマリアが言った。
映画行ったり遊園地行ったり、お茶したり買い物したり、東京に来てから何人かの女の子と過ごしたことがあった。
女の子は可愛いし優しいし、笑ってくれると嬉しくなる。1日が楽しくなる。
なのに
「そうかあ。当分は無理だなあ」と俺は言っていた。
「トウブン」とマリアが言う。うまく説明できるかなあ日本のニュアンス語を。
「うーん、少し長い間のことかな」
伝わったようだけど、そのせいでマリアは明らかに寂しそうな顔をした。
「どうしたの。マリアにあれでいいの」とパーティーから帰る道すがらケンが言ってきた。
昔から俺には時々どうしようもなく甘えたくなる人がいる。
この気持ちには14の時から気付いていて、17の時にははっきりと自覚していた。
少し時間ができると、その人のそばに帰ってみたいなと必ず思った。
けど、繰り返し考えては迷って結局それはしなかった。あの人に弱気を見せたくなくて4年間意地を張ってた。
できない理由もわかってる。もう1人の弟っていうポジションが居心地良かったから。
俺が居ていい場所を失うことが怖くて、ただ意気地なしだから。
時々甘えるだけで叱られるだけでいい、心に麻酔でもするように自分に言い聞かせるようになってた。
プロデビューして、俺たちは夢を叶えようと4年間足掻いて来た。
ここまでメンバー誰1人愚痴も弱音も吐かなかったし、今も全力だ。
最近のライブはホールが毎回ソールドアウトだしCDも売れてる。
これからの目標は札幌での野外ライブ参戦と、アリーナ規模のライブを成功させることだ。
でもDarwinが進化して早く走れるようになればなるほど、高く飛べば飛ぶほど心に打つ麻酔は効かなくなった。
俺はあの人に認めて欲しい。そうしないと失速しそうだ。そう自覚すると苦しくて辛い。
今更それが叶うのものか、そう思うと怖い、でも。
「ケン、俺明日のライブの後札幌行くわ」明後日はオフだった。
「え、何急に」
「まあ撃沈して死ぬかもだけど、俺聖美さんに会いに行くわ」そう言うとケンは少し固まったけど急に笑い出した。
「お前、ついにまた叱られたくなったのか」言うなケン、恥ずかしさが尋常じゃない。
「うん、いや。でも洸に今更だけど言いづらいなあ」
「そうかな、洸はわかってるんじゃないの」とケンは言った。
肚を決めた俺は次の日のライブの後で洸に言った。
「洸、俺これから札幌行って聖美さんに交際申し込んでいい」精一杯筋を通したつもりだったのに、洸の第一声は「え、これから。飛行機あんの」だった。
「もう取った」
「じゃあ、それは別に俺に聞くことじゃないだろ。でもマリアじゃなくて、ゴリラでいいの」と横目でニヤついて言って来た。
「悪いか」と俺が言うと洸は黙って眉を上げて笑った。
「ユッケの思春期にグッドラック。何かあれば焼肉奢る」とセイ。ありがたいけどそれは多分振られる前提だよな。
22で思春期か。確かに今さらこんなことする奴はそういうレベルってことか。
恥ずかしいけど、嬉しさも辛さもこういう情けなさもメンバーとは分け合って行くって決めてるから、と俺は開き直った気持ちになる。
「お前、この際好きなだけ叱られてこい」とケンがダメ押しするので
「そうするわ。したっけ」と北海道弁の捨て台詞を決めて俺は楽屋を出た。
1990年6月。天気予報だと今夜の札幌は穏やかに晴れているらしい。
マネージャーの柾木さんに明日には戻ると伝えて、俺はライブ会場から空港に向けて直行した。
言えるのかあの人に。俺を見て欲しい、選んで欲しい。できるなら俺だけを愛して欲しいと。
あの人から見たらいつまでも俺はガキかも知れない。撃沈するかもだけど。
そうしたらショックでもう会えなくなりそうだ。
それでも行かずにいられない。俺はもう心を決めたんだ。