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軋む扉 5

中二の秋、家に帰る途中に「コウくん」と後ろから呼びかけられた。

声の主は高校の制服姿の千佳さんだった。

彼女は、俺の幼馴染で同級生の彩香の義理のお姉さんだ。

彩香の家は両親が離婚し、お母さんが再婚していた。

千佳さんは、その再婚相手の子供なんだけど顔見知りのお姉さんだった。

「こんにちは」と俺は挨拶した。

「ハナに仔猫産まれたんだよ。すっごく可愛いの。ちょっとだけ見てかない」

と、千佳さんが言った。

ハナは彩香の家で飼ってる猫で、人懐こい性格なのか遊びに行くとすり寄って来たり甘えてくるので、俺はハナが好きだった。

俺も猫が飼いたかったけど、母親と姉の聖美が動物のアレルギーがあって無理なので、小学校の頃からの遊び仲間だった彩香の家に行くと俺はよくハナを構って遊んだ。

「あれ、もういいんですか」学校で彩香は産後のハナが気が立ってるからもう少ししてから来て、と言ってたけど。

大丈夫なら少しだけ、見せてもらうかなと思った。

「こっちだよ」と千佳さんが案内してくれた。

家の横にある薄暗い物置に置かれたボール箱を覗き込むと、毛布を敷いた上に、母猫のハナが3匹の仔猫と一緒に寝そべっていた。「ハナ」と呼ぶとニャーと応えるようにハナが鳴いた。

ハナの顔はちょっとやつれた感じで目つきは鋭い。お産が大変だったのかな。

「仔猫に触ってみなよ」と千佳さんが言った。

猫というよりか、小さくて毛並みも薄くてハムスターみたいだ。

ちっちゃいなあ。指先で仔猫に触れると「ニー」と「ミー」の中間みたいな声で小さく啼いた。

「触って大丈夫かな」と白に斑模様の1匹に触ると、いきなりハナが俺の手に噛み付いた。

「痛っ、ハナ怒った」と言った時「コウくん痛かった」とすぐ後ろで声がして俺の背中に手を当てて、千佳さんが体を寄せて来た。千佳さんは俺の姉の聖美と同い年で18歳で、色が白く大柄でどこか大人っぽい感じの人だ。

綺麗な顔立ちなんだけど、女の人として意識したことはこれまでになかった。

ハナに噛まれた俺の指先からは血が出ていて、千佳さんは何気なく俺の手を取り指先に目を止めると、チロっと舌先で舐めてから口に含んで軽く吸った。いきなりのことに驚いて手を引き俺は立ち上がろうとした。

けど千佳さんはそのまま身体を離してくれなくて、俺は急に後ろから抱きすくめられた。

俺はバランスを崩して猫たちの寝ている箱の上に倒れそうになり、とっさにそうなるのを避けてかわすと、勢いで物置の床の上に倒れこんだ。立とうとしたら千佳さんがしがみついて来て、仰向けに押し倒されてしまった。

「うわ、何するの」

「聞いて。千佳ね、コウくんがずっと好きだったの。コウくんはかっこよくて優しいもの。千佳、コウくんがすごく好きなの。お願い、言うこと聞いて、一緒にいて」そう切実な感じで言いながら千佳さんは馬乗りの体勢に俺を押さえた。

それから少し身を起こすと、どこに持っていたのかカッターナイフを出して、キリキリと音をさせて刃を伸ばした。

「言うこと聞いて。でないと私、これで死ぬ」

そう言った千佳さんは目が据わった感じで、青白い顔ですごく怖かった。

千佳さんのセーラー服のリボンは外れていて、彼女はカッターナイフを手にしたまま俺の制服のズボンに手をかけた。

「やめて、千佳さん」掠れ声しか出てこない。彼女の手を抑えようとすると手の甲に鋭い痛みが走った。

「コウ君逃げないで。動いたら切っちゃう。じっとしてて、ね」

相手は女の人なのに、押さえられて冷や汗が出て体が震えて逃げられない。

なぜこんな状況でこんなことをするのか、できるのかわからない。どうして。

でも、急激に身体が快感に落とされて思考が途切れた。

「、やっ…」声を上げようとしたら、カッターを握った手が口を塞いで来た。

なぜ快感があるのかわからない。おかしい。こんなのおかしい。

でも、俺は逃げ出すことを放棄してしまった。

しばらくして周りの景色が、思考が戻ってきた。周囲に散らばっている物が視界に入る。

俺のカバン、靴の片方、千佳さんの制服のリボン、下着。少し離れたところに刃がむき出しの黄色い柄のカッターナイフが落ちていた。

「ニー」と、か細い仔猫の啼き声がした。

「コウ君、もう千佳のものだよ。彩香はねえ、コウ君のことが好きなんだよ。でもあの子は生意気だから、もうコウ君に近づかないように言うから。だからもう遊ばないで。私、あの子大嫌い」

低い声で、顔を歪めて千佳さんが言った。

さっきまでの千佳さんの言葉は嘘なのか。これは彩香への見せしめなの。今のこと彩香に言うつもりなのか。

ショックがありすぎて考えがまとまらない。

俺は何も喋れなくて、何とかその場を離れて家に帰った。

たまたま家族が留守だったことに、すごくホッとしたのを覚えてる。このことを絶対に知られたくなかったから。

すぐにシャワーを浴びた。お湯が沁みて、切られた手の甲から血が流れていた。

初めてだった、女の人と。でもあれは。

千佳さんは、俺は、何をしたの。



「それはね洸ちゃん、暴力よ。洸ちゃんはレイプされたのね」

しばらく沈黙があってから静かに翔ちゃんの声が言った。

翔ちゃんの家で、俺はついに6年間心にあった秘密を話した。

「レイプって、女性に対してのことじゃないんですか」

「でも、脅されて恐怖があってパニックに陥れられて、同意もなくて。男だろうが女だろうがそれってレイプでしょう」と翔ちゃんが言った。

心と体が噛み合わない強烈な体験だった。

男だからって、女性に無理やり触れられても平気ってわけじゃない。

俺は、愛情と信頼を交わしてる相手とこそ触れ合いたいから。

「洸ちゃんは身体が反応したことに戸惑ってるんでしょう。

でもそれは反射のようなものよ。心は違うんだもの。洸ちゃんが経験したことは暴力よ」

俺は呆然としながらも、同時に安心していた。翔ちゃんは真面目に聴いてくれて、考えを話してくれる。

俺は、もう一つの秘密を翔ちゃんに打ち明けた。

「翔ちゃん俺、最近いろんな目に遭ってからさあ、夢を見るようになったんだ。繰り返し同じ夢。カッターの音がして動けない夢」

そんな触れ方しないでくれ、お願いだ。怖いんだ、混乱させないで。夢の中で俺は何回もそう思った。

「相手が身近な人だから、誰にも言えなかったのね」

翔ちゃんは静かに涙をこぼしていた。俺のことなのに。

「だから洸ちゃんはあんなこと言ったのね、『体は心を裏切る』なんて。二十歳の男の子の言葉じゃないわよ」

「そうかな。でも、そうとしか言えなくて。体だけ快感に落とされても、心がこんなのおかしいって言ってくると虚しいから」

「そうよね。男だったらそんなことラッキーだろう、なんて言う人もあるかもしれないけど洸ちゃんにとって違うなら、それは違うのよ」

「うん、俺にとっては、あれは初体験じゃないんだ」

本当の意味での初体験、それは高2の夏だと思う。みんなと海に行って、それから未希と。

「洸ちゃん、今の彼女とはうまく行ってんの」と翔ちゃんが言った。

「あ、うん。まあ。でもあまり会ってないんだ」

「Darwinのみんなにも聞いたけど、未希ちゃん、良い子らしいよねえ」

メンバーの翔ちゃんに対する口の軽さ。まあ、これは翔ちゃんへの信頼の証だな。

俺も翔ちゃんにだけ、この際話すことにした。

「俺、ちょっと苦手なことがあって」と切り出すと、翔ちゃんは今度は俄然興味津々で「何々、どんなことおー」と迫って来た。

俺の心にあった6年分の何かが、ゆっくりと解けていく。この一年半余りの色々も。

思い出すたび胸が痛くて辛かった記憶が溶けていく。

誰かがこうして肩を貸してくれたことで心の重しが取れて、今は少し引いて考えることができる気がする。

愛でもなく強い欲求ですらなく、誰かへの憎しみを表すために、苦しめるためにあんなことができるのか。

誰かを支配して優位に立つために。

でも、ふと思った。俺は女の人は守るもの、大事にするものとずっと思って来た。

女の人はどうなんだろう。千佳さんはなぜあんなことができたんだろう。

まさか、考えたくないけど誰かが千佳さんにあんな支配の仕方を教えたのか。

翔ちゃんは俺に言った。

「ねえ洸ちゃん。こうやって悩んでいる洸ちゃんの側には、天使が寄り添っているのよ。未希ちゃんや、こんな私みたいな天使もいるのよ。あなたは一人じゃないから、大丈夫よ」



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