其の四
酷く寒い……木下はうなじから背筋にかけて悪寒を感じていた。冷風を吹き付けられていると錯覚しながら、視線の先でぼんやりと佇む、人に似た何かを凝視した。
「TVの中継で何度か拝見させてもらった君の剣は、剛ではなく柔だな」
葵は鍔本を腰に寄せると、音もなく抜き放つ。先ほどの薄ら笑いは消え去り、目元には冷ややかな気配が漂う。刀の峰が異様な輝きを放ち、木下の瞼を重くした。
「こんなことをして、どうなるか分かっているのか? あんた、一生刑務所から出られないぞ」
木下の言葉に幼さを感じた葵は、再び口元に嫌らしい程の笑みを浮かべた。
「木下君、君はなんのために生きている?」
「なんのため?」
「朝起きて、飯を食らい仕事をして、また眠りにつく……女を抱いて糞をして、趣味……そうだな、ギャンブルでもいいしスポーツでもいい、そういった何かに夢中になり、やがて老いて死んでいく」
葵は吐き出すように言葉を紡ぐと、木下を見つめた。
「あんたが何を言いたいか分からないが、それが人生だろ」
「――生き死にに関わると、他の全てがつまらなくなる。全てが」
吐き気を催す程の鉄の匂いに満ちていく道場の中で、禅問答じみた会話を交わす二人の間に、しばしの沈黙が降りた。時折カタカタと虫が這うような音が聞こえるのは、絶命した二人の遺体が死後硬直で収縮し始めているせいだろう。
「さぁ」
葵は中段に構えると、右足を僅かに引く。獣じみた眉間から鋭い眼光が輝く。明確な殺意が見てとれた。
(このまま死ぬわけにはいかない)
木下も鯉口を切り、中段より僅かに低く構えた。顎を引き、両の親指の付け根を絞ると、カタカタと震える刀身が数秒で鳴き止む。
葵の口角が裂けるように上がった。
磨きこまれた床を蹴り出す音が一つ。葵が上段から撃ち込みをかける。白刃が空を裂き、木下の額を襲う。
「ふっ」
木下は摺り足で後退しながら、刀を振り上げた。
鋭利な金属がぶつかり合い、弾ける。黄色い閃光が互いの眼前で踊った。
「おおっ!」
細身からは想像もつかぬ膂力を以て、木下は葵の攻撃を押し返しながら、突きを放つ。
一つ……二つ……。常人には捉えきれぬ速さで銀色に霞む刀身。葵は刮目しながら一撃目をいなすと、素早く後方へ飛び退く。
(……速いな)
木下の動きに驚嘆していた。竹刀と真剣では勝手が違う。およそ10倍以上の重量差があるのだ。
(これ程操れるとは)
葵は喉を鳴らすと、陰茎に血液が充足するのを感じた。
「いいなぁ、実にいい」
その淀んだ声色に、木下は身の毛もよだつ恐怖を感じた。
(この変態野郎を、殺す)
声には出さない。だが、ざらざらとした刀の束を握る掌に力を込めると、恐怖を怒りで振り払う。
「いいね。木下君、その眼差し。まさに怒りそのものだ。そう、怒り。女の又に心と書いて怒り。……三人目の女だったかな? こう、女性自身に刀身を突き立ててやった時のあの顔が――」
「やめろ! 変態サイコ野郎! これからお前の五体をバラしてやる!」
木下は奥歯を鳴らすと、顔面を蒸気させながら怒声を上げた。
(そうだ、それでいい)
葵は腹の底から笑い出したい衝動を抑えると、再び中段に構えた。先程より刀の切っ先が僅かながら斜めに崩れた、癖のある構え。そして何故か、殺気に充ちていた気配が虚ろに――。
(今だ!)
それを隙と見た木下は上段から一気に撃ち込む。その動きは先程より更に加速していた、が……。
「うっ」
踏み出しかけた足から、一足飛びに後方へ跳躍した木下。着地した後、左胸に痛みを感じ視線を送る。目の粗いセーターが斜めに裂け、血が染み出していく。徐々に痛みを覚え、傷が浅くないと知った。
「今のは……」
苦悶の表情を浮かべる木下を冷ややかな瞳で見つめ、葵はゆっくりと口を開く。
「――“後の先”」
「ゴノセン?」
「相手の後に動き出しながらも、その先を行く。兵法さ」
葵の隙を衝き、必殺の攻撃として上段からの撃ち込みに出た木下の動きを凌駕して、葵はほとんどノーモーションの突きに出た。その動きは神がかり、気配と音すら感じさせる間もなく木下の喉仏に襲いかかったのだ。
辛くも体を捌き回避した木下だったが、胸元を鋭利な刃が掠めていた。
(速い!)
木下は戦慄していた。およそ真剣の重量を感じさせない葵の超人的な動きは、自らの技量を遥かに越えていると認めざるを得ない。
「どうした木下君? 君は日本一のはずだろ?」
虚ろな表情で首を傾げる葵の瞳には、生者の輝きが失われて見えた。
(こいつ、人じゃない)
木下は再び自らの膝が震えていることに気付く。
瞬間、駆け出していた。……道場の戸口へ向けて。
「木下く~ん」
不気味にくぐもった葵の声を背に、木下は駆けた。全力で。
「木下ちゃ~ん」
遠ざかる不気味な声色。木下はついに戸板に触れた。
「がっ」
吐息が漏れた。その不自然な声が自らのものだと気付くのに数秒。視線を落とすと、木下の胸元から銀色の物体が生えていた。
「言っただろ? 脚には自信があるって」
目を見開く木下の頬に、葵が自らの頬を寄せて囁いた。瞬間移動したのではと錯覚する速さで、葵は木下の背後に近付き、背骨から心臓にかけて、正確な一突きを与えていた。その剣先は戸板にまで達し、木下を釘付けにしている。
「あ……うっ」
口角から赤い筋が滴り、冷えた床に幾つもの点を打つ。全身から力が抜け落ち、木下の右手から刀が落ちた。
葵は静かにそれを拾う。一息も置かず、全身の筋肉を収縮させると、上段から木下の後頭部目掛け撃ち込んだ。
凄まじい斬撃は、頭皮と頭蓋をあっさりと両断し、脳幹をも断ち割った。
「美しくないな。やはり斬るなら、若い女に限る」
ゆっくりと左右に裂ける木下の後頭部を見つめ、葵はボソリと呟くと、刀を放った。
木下は絶命し、磔にされた全身がビクビクと反射でのたうつ。
「剣道の達人も、所詮は軽業師。真剣など扱えぬ……か」
虚ろな表情のまま、葵はゆっくりと戸板を開けて外に出た。
◆
屋敷の庭園を抜け、打ちっぱなしのコンクリートでできた真新しい車庫に入っていく。広い屋内には、つい先日、ロシアから届いたばかりの黒塗りの35GT-Rが。外装を全て防弾仕様にカスタムされた車体は3t近い重量があり、足回りからエンジンに至るまで、全てに於いてチューニングが施されていた。トランクの中と後部シートの足元に至るまでが燃料タンクに改装され、一昼夜走り続けることが出来るだろう。
車体後部に置かれたプラスチックのボックスを開けると、予め用意しておいた防護服を着こむ。米国のスワットが正式採用している防弾仕様のそれは、日本の警察が使用する豆鉄砲では貫通させることが不可能な硬度をもっている。
「さて……歴史を刻みにいくとするか」
GT-Rの運転席に滑り込むと、スターターボタンを押した。900馬力までチューンナップされたV6が目覚め、チタンの排気管が獣のごとき咆哮を上げる。
後部シートには、長年かけて集めた古今の名刀が束になって置かれていた。
「そうだ、俺は……」
車庫のシャッターがゆっくりと、滑らかに開いていく。どこか虚ろな葵の眼差しは、生きているのか死んでいるのか。しかし、葵には、一つだけ分かっていることがあった。
「――ただ、斬りたいんだ」
―完―