其の三
――郊外に居を構える葵の邸宅は、敷地の中にある本宅と離、そして道場と庭園を含めると、端から端まで歩くにはかなりの時間を要するほど広大だった。
四台は車を収納出来そうな真新しい車庫を右手に、庭先を進む三人。
「なんでも、何代も続く名家らしいですよ」
押井の後ろを歩く後輩刑事は腰に両手を回しながら、玄関までの庭園に視線を巡らす。直毛の黒髪に眼鏡。中肉中背で、どこか育ちのよさが漂っていた。
「そんな野郎が連続殺人なんて考えられんな」
先を行く押井は、石畳に無骨な足音を響かせながら歩みを進めた。少し距離を置いて最後尾の木下は、手入れの行き届いた庭園に目をやるわけでもなく、ぼんやりと空を眺めている。
押井が桧で作られた華奢な格子戸を開けると、視界の先には傾斜した立派な松の木が左右に佇む。
「こんにちわ」
その真ん中で、和装の葵が笑顔で出迎えた。インターホンのついた立派な門扉から、三人はここまで二分近く歩いたことになる。
「立派なお屋敷ですね。私んちが10軒は入りそうだ」
押井は厳つい顔に満面の笑みを浮かべると、体を斜めにして左手で招き入れる葵の動作を視線で追う。そのギラギラとした眼光は、やたらと鋭い。
葵が木下に気付き、軽く会釈する様を見逃さなかった。
「ご要望通り、彼を同行させました」
「ありがとうございます。木下君のことは雑誌やスポーツ紙でいつもチェックしてますよ」
その言葉に、押井はピクリとこめかみを上下させた。
「どうぞこちらへ」
穏やかな微笑みを浮かべると、葵は三人を屋敷に招き入れた。
◆
「これはまた広い道場ですね」
ひんやりとした板張りの道場は薄暗く、明かり取りの窓から射し込む陽光だけが、幾つかの四角い輝きを床に映していた。
掛軸のかかった床の間には朱色の甲冑が鎮座していて、頭部の眉間が暗がりの中で不気味に虚無を漂わす。目の前には日本刀が三振り、横にして段になり飾られていた。道場中央で周りを見渡す来客を背にして、おもむろに葵は床の間へ歩みを進めた。
少しかがむと、甲冑の前に置かれた日本刀を手にし、三人の元へと近付く。
「ところで葵さん、二~三、お聞きしたいことが……」
押井は、音もなく歩く葵の両眼を見据えた。
――その時。
「はっ?」
押井の漏らした声。直後、袴の擦れる音と床を軋ませる均一な歩調、その規則的な音と共に、重量物のある何かが床に落ちる鈍い音が響いた。
「あっ!」
後輩刑事が口と瞳孔を拡大させ、直立した。
その視線の先にあるはずの物体が、ない。正確には無くなった。
押井の首が胴体から切り離され、床に落ちたのだ。
後輩刑事と木下の目からは、体格のよい押井の体が陰になり、その行為に及んだ葵の姿が見えていない。
二人の若者に背中を向けた押井の首からは、血液が湧水のように止めどなく溢れ出す。落ちた首がゴロリと木下の視線の先に転がり、口と瞼が小刻みに開閉を繰り返していた。直後、押井の体が硬直したままゆっくりと後方へ倒れていく。床に叩きつけられ、轟音と共に全身が力なく波打った。
そして、膝を落とし、抜刀した右腕を伸ばす葵の姿がそこに。口角を不気味に歪ませている。白刃にはうっすらと血液がまとわりつき、明かり取りから射し込む外の光を滲ませていた。
「なっ、なにを!」
後輩刑事は腰が抜けたのか、膝を折るとヨタヨタと後退りしている。だが、ありったけの勇気を総動員して、懐に吊るしてあるニューナンブを抜こうと試みた。が、上着をうまくめくれない。
刹那。続けざまに鈍い音が三回。
「いっ」
奇妙な声を発した後輩刑事の後頭部に、銀色の金属片がにょきりと生えていた。
背後の木下は直立したまま。そして、後輩刑事がゆっくりと膝から崩れ、突っ伏した。血溜まりが二ヶ所、じわじわと音もなく道場の一角を侵食していく。
葵は恍惚の表情を浮かべ、刀を握った腕を反すと刃先を見つめた。その顔は最早別人にしか見えない。
獣、とでも言おうか。端整な顔立ちが、くしゃくしゃと皺で陰影を刻む。
「二人も斬れば刀は死ぬ。あれだね、戦場で何人もの首を挙げるなんてのは、嘘だ。血糊を拭っても切れ味は戻らない」
「……なぜこんなことを……俺も、殺すのか」
木下はどこか他人事のように呟いた。信じ難い事象を前に、血の気が引き目眩に襲われる。膝から下腹部へ向けて静かに這い上がる、得体の知れない感覚に抗おうとしていたが、それが恐怖だと気付いた時、死が現実に迫っていると知った。
「違うよ木下君、君が殺すのか、殺されるのか」
葵は白い歯を剥くと、数分前とは別人の、邪な笑顔を見せた。そして静かに踵を反すと、再び床の間へ向けて歩き始めた。
(今なら逃げられる)
咄嗟に脳裏を過った思いに、木下は駆け出そうとした。
「止めておいた方がいい。君が戸板を開けて外に出るより先に、私が切り伏せる。自慢じゃないが、脚の速さには自信があるんだ」
葵は血糊と脂肪でギラギラと光る刀を無造作に放ると、床の間に飾られた二振りの日本刀をそれぞれ両手にした。
「どちらも室町の作だ」
言いながら、一振りを木下へ向けて投げてよこす。咄嗟に両手でそれを受けとる木下。
「さぁ、抜きなさい。始めよう」
その言葉を木下が理解するのに数秒を要した。
「……切り合うってのか」
「そうだ。恐らくこの日本で、真剣を用いた命の駆け引きなんてことをやった人間は、この数十年いないだろう。狂気に駆られた一方的な殺戮なら例はあるがな」
鳩の鳴き声に似た音で喉を上下させる葵。
「あんた、狂ってるよ」
木下は葵が履く袴の中心が隆起していることに気付き、背筋に冷たい感覚を覚えた。そして、今目前にいる男が、人ではない何か別のものではないかという錯覚に陥った。