其の二
「おい、木下」
県警本部の柔剣道場は、男達の発する熱気で霞がかって見えた。署長の声に、木下と呼ばれた青年は、振り上げかけた竹刀をゆっくり下ろすと目前の相手に一礼し、戸口へ踵を返す。
視線の先には、見慣れた小太りの署長と、上着を脇に抱えた体格のよい角刈りの男がいた。
「着替えて上がってこい。聞きたいことがある」
署長の甲高い声に木下は黙って頷くと、更衣室へ向かった。
◆
タバコの脂で壁一面が薄汚れた応接室のソファーは、所々革がほころび、触れるとボロボロと粉を吹いた。それを気にするでもなく、署長と角刈りの男が並んで腰をかけている。
「失礼します」
着替えを済ませた木下は一礼してから入室すると、署長達の反対側にある辛うじて劣化の少ないソファーへ静かに座った。
「次の大会まで稽古に余念が無いようだね」
角刈りの男は幅の広い肩をすぼめると、タバコを灰皿に押し付け、黄色い歯を見せる。視線の先には、棚に並んだ数多の優勝カップが。
「えぇ、まぁ……所で、なんでしょう?」
目鼻立ちの整った、ともすれば華奢にも見えるこの青年が、全日本剣道選手権を三連覇しているなどと聞いても、ほとんどの人間はすぐには信じないだろう。どこか女性的な気配さえ漂わせているからだ。
「ここ一年の間に起きている連続殺人事件について、お前に二~三、聞きたいことがあるそうだ」
署長はそう言うと、角刈りの男へ視線だけ送った。
「本庁の押井だ。早速ですまんが、この写真の中で見覚えのある男はいるか?」
押井と名乗った角刈りの男は、タバコを胸元へしまうと、代わりに上着のポケットから写真を三枚取りだし、テーブルの上に広げた。
「……この人なら知っています。確か、葵……でしたっけ?」
木下は真ん中の写真を指差すと、眉間に怪訝そうな色を浮かべ、署長と押井を見渡した。
すると押井は署長と視線を交錯させながら口を開く。
「面識は?」
「いえ、ありません。確か、動画サイトや、たまにテレビで、その、見世物みたいな剣技を披露してますよね? 私の卒業した高校の先輩なんですよ。一回りぐらい年上なので話に聞いたぐらいで」
木下の言葉に、押井は数秒沈黙すると、再び上着のポケットへ手を突っ込み、10センチ四方のビニール袋を二つ取り出した。
テーブルの上に置かれたそれを見て、木下は更に表情を強張らす。
「……これは?」
「七件目、それと直近……と言うにはなんだが、それぞれの現場に落ちていたんだ。どう見ても君だね? スポーツ紙の切り抜きのようなんだが。……断りもなく申し訳ないが、ここ数ヵ月の間の君の素行調査は済ませてある。本人を目の前に言うのもなんだが、各事件についての君のアリバイは立証されているから安心してくれ」
押井は一重の瞼を僅かに閉じながら、不気味な笑みを浮かべた。
「はぁ……」
木下は気の抜けた返事をすると、切り抜きを見つめた。恐らく天皇杯のものであろう二枚の写真の人物が、紛れもなく自分であると確認した。
「君もニュースで知ってはいると思うが、何れの被害者も鋭利な刃物で一刀の元に斬りふせられている。遺体を司法解剖した結果、切断面は日本刀の切り口で間違いないと思われる……が、どうやら素人の仕業ではないらしい」
「素人ではない?」
唐突に始まった話に、木下は幾らか混乱しつつも押井の話に耳を傾けた。
「ああ、断ち筋があまりにも見事でな。刀剣の扱いに精通した人間、それも生半可な腕じゃない。事件は半径300キロ圏内で起きていて、組関係者、刀剣収集家、剣道の有段者など……この数ヵ月、捜査員が足を使って調べあげた結果、さっき見てもらった写真の三人に絞られた訳だ」
押井はこめかみの辺りを太い親指でがりがりやると話を続けた。
「葵以外の二人は、組関係の人間と刀剣収集家なんだが、面識や見覚えはないかね?」
木下は長い睫毛をゆっくり伏せながら写真に見いると、(ありません)と、一言答えた。
「……署長、木下君をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「構いませんが、現場に木下の写真があったからといって、同行させるというのは……」
腕組みをして顎を引く署長。
「ご指名なんですよ」
「はっ? なんですと?」
「葵氏に面会のアポを取った時に、木下君を連れてこいと――」
押井は真剣な眼差しで、木下、署長と順番に見渡した。
◆
加齢臭が漂う覆面パトカーの後部座席で、木下の顔には憂鬱な色が浮かぶ。
助手席の押井はスマホをいじりながら相変わらずタバコの煙を吐き出し続けていて、車内はさながら工業地帯の空模様だった。
「……太田からの連絡で、刀剣収集家の方は白だったようだ。恐らく黒部組も白だろう」
「となると、やはり葵で決まりでしょうか? 担当捜査員の話では、事件当日の朝、近隣住民の目撃情報から、車で出掛ける葵の姿が確認されています……そうそう、車と言えば、最近、葵は大金をかけて車を購入しています」
「車? それがどうした?」
「ええっ、ロシアでカスタムした車のようです」
「ロシア? カスタム?」
「はい。防弾仕様に、エンジンをチューニングして馬力を上げたとか」
「防弾? なんでまた?」
「その辺がいまいち理解出来ないんですが、有名人ですし、被害妄想でもあるんでしょうかねぇ」
押井との会話のあと、運転している若者は口を真一文字に結ぶと、左手でラジオのボリュームを下げた。
年齢は木下と同じく二十歳過ぎなのだが、落ち着いた物腰と態度から、押井同様、本庁のキャリア組と思われた。
「木下君、心配しなくていい。君はついてきてくれるだけでいいんだ。今日はカマをかける程度で退散する予定でいるから。持ち帰った各班の報告を集計、精査して令状が取れるはずだ」
押井は刈り上がった後頭部をヘッドレスト越しに僅かにずらすと、ルームミラーで木下の表情を伺う。
「ええ。それにしても、何故現場に私の写真が? 彼と面識などないんですが」
「共通してるのは、お互い剣……いや、武道の達人ってことなんだが。それと、君も日本刀を所有しているそうじゃないか」
押井の言葉に、木下は視線を窓際に移した。
実のところ木下も、模造刀ではなく真剣を所持していた。別にやましいところは微塵もない。きちんと刀剣所持の許可は得ている。
自宅での稽古の際に、天井からたこ糸で吊るした和紙を両断する……といった、特殊な練習方法を密かに行っていたのだ。両手両足に5キロづつの重量があるリストバンドを装着しながら。
「徹底的に私のことも調べあげたんですね」
「悪いが、君も最後までホシのリストに残っていたんだよ」
悪びれる様子もなく、押井はルームミラーに映る口元を歪めた。