其の一
鋭利な、危うい輝きを放つ刃が波打った。
まだ薄暗い道場の中央で、葵裕樹は中段に構えたまま、微動だにしない。
ぬらぬらと濡れて見える刀身の峰は、道場の格子窓から僅かに射し込む光を浴びて、微かに舞い散る埃を照らし出す。
張り詰めた空気を割いて、吠えた。
中段から振り上げた刀の切っ先が、軽い音を立てながら頭上で旋回し、撃ち込まれる。
その道の者が見れば、それは完璧な業であり、達人と呼べる領域の者にすら溜め息をつかせる程の動きだった。
だが、当の本人は眉間に不快感を浮かべたまま。
満ち足りてはいない。
信念無限流と呼ばれる実戦剣法を、幕末以前から連面と受け継ぐ葵家は、夭逝した父から数え、裕樹で7代目にあたる。
年端もいかない時分から竹刀を握り、物心ついた頃には真剣を操るに至っていた。
衰退していくこの業界において、彼は異端児として海外から注目を浴びていた。
大リーガーの速球を居合い抜きで両断して見せたり、ガス銃から放たれたBB弾を断ち割るなど、超人的な試技を無料動画サイトに投稿するなどしていたのだ。それらを視聴した世界各国の人々の中には、深く感銘を受ける者が数多おり、信念無限流の門を叩く者は後を絶たず、幾ばくの時を必要とすることもなく、信念無限流は隆盛を極めるに至った。
だが、懐が温かくなる一方で、葵の心は冷めていく。
「見世物の業で集めた外人の門下生に、一体何が分かる」
自らの類い希な才能を世間に知らしめたい。ただその思いから始めた動画投稿だったが、その見世物的な業に感動し、教えを請いに訪れた外人達の中には数日もすれば飽きて帰国していく者もいた。
そのフラストレーションは、次第に葵裕樹の心に禍々しい狂気を芽生えさせていく。
――いや、それは彼の中に眠っていた本性だったのかもしれない。
◆◆
まだ肌寒い四月中旬。葵は昼頃から車に乗り、下道から250キロ程の距離にある田舎町へと向かう。
ただの旅行ではない。彼にとっては知らない土地であり、観光する訳でもない。時刻は夕暮れに差し掛かり、日が僅かに翳っている。
高速を使わないのも、大都市へ赴かないのにも訳があった。
スマホで近隣の高校と公園を検索する。商店街や新興住宅地を避け、人通りもまばらな公園の駐車場に車を停めた。セダンのトランクからバッグを取りだし、公園のトイレへ入ると、準備していた作業着に着替えた。帽子を目深に被り、車に戻るとバッグをトランクへ投げ入れ、地図や青写真を収納する円筒形のアジャストケースを取り出す。
その姿は建設業の現場監督よろしく、怪しい気配は微塵もない。
身長170センチの中肉中背。だが、その肉体は恐ろしいまでに鍛えあげられていた。体脂肪率、実に6パーセント。中肉に見えるが、それは鋼材を寄り合わせたかのような筋肉の固まりであり、握力は100kgを優に越えている。
ゆっくりとした歩調で進み出し、古くからある住宅街を悠然と見渡す。
人通りはまばらだ。老婆が手押し車を両手に、腰を曲げたままよたよたとすれ違う。
道は次第に細くなり、車の往来もない。
ふと、視線の先に女子高生が見えた。あどけない白い顔に、黒髪が艶やかに風になびいている。
細身の体に纏った、どこか垢抜けない制服がいかにも田舎の少女といった風情だ。
葵は僅かに口許を歪めた。だが、それに気づく者はいない。
緊張から、下腹部に鈍い痛みが走り、膝が微かに笑う。
(あぁ……。俺は……)
齢42にして、自問自答した。
この瞬間を何度夢見たことか。しかし、それが、全てを破滅へ向かわせるということは痛い程に分かっていた。
肩口から斜めにかけたアジャストケースの蓋は開いている。それを左腕で挟めたまま、右手をゆっくりとケースの中へ。
次第に近づく少女は、電信柱の烏を見上げながら、小気味よい音を立てて革靴を鳴らしている。
少女との距離は僅かに数歩。
瞬間、幼い眼差しが葵の眉間を差した。
心臓から脊髄にかけて、悪寒とも狂喜とも形容できない感覚が貫く。
「あぁ……」
ヘソの下が疼いた。そして――。
0.5秒にも満たない、細やかな金属音が弾ける。
風が、斜めに裂けた。
アジャストケースから銀色の刃が帯を引くようにキラキラと輝く。
少女は虚ろな眼差しで葵を見つめたまま。
「ううっ」
呻きともため息ともつかない声が漏れ、少女はゆっくりと後方へ倒れていく。
「……浅い!」
思わず、低い声で呟いた。
ゆっくりと歩み寄り、倒れた少女の顔を覗きこむと、彼女の顔面が斜めにずれて見えた。
ピクピクと左手を痙攣させたまま、声を出そうとしていた。
次第にアスファルトが血液で染まりだす。
黒と白と赤。アスファルトと少女の白い顔と鮮血。その異様なコントラストを眺めながら、膝が笑いだした。そして、自らの陰茎に血液が集まりだしたことに気付く。
「……ふふっ、くくっ」
刀をアジャストケースに放ると、踵を返してゆっくりとした歩調で公園へと向かう。周囲には誰もいない。
そして、陽が落ちた。