78◇黒野永遠、思い出す
ビクンッとトワの身体が痙攣した。
「あ……あ、――あ――――――――――あぁッ!!」
衣服越しに爪が皮膚に食い込む程、幸助の背中に込められる力が強まる。
彼女自身の力に耐え切れず、パキパキとトワの爪に罅が入って割れた。
そこからの数十分は、地獄だった。
トワは絶えず泣き叫び、絶叫し、幸助を突き飛ばそうと暴れた。
記憶のフラッシュバックが起こっているらしく、彼女は「やめて」「たすけて」という言葉を何度も何度も繰り返した。
父や母、幸助のことを何度も呼んだ。
それは、過去の一場面の再現に他ならず。
その呼びかけが行われている最中、幸助は友達と遊んでいた。
消えることの無い罪悪感は短い期間にその大きさをトワ喪失当時のそれに戻し、幸助を苛む。
それでも彼女の身体は離さない。
今、幸助は妹の目の前にいるから。
今度は、一緒にいるから。
あの日の彼女を救うことが出来ないのだとしても。
せめて、今の彼女から逃げたくはなかった。
永遠にも思えた苦鳴は、やがてピタっと止まる。
不気味なくらいにいきなり途絶える。
「…………コウ、ちゃん」
「……あぁ」
今のトワは、『紅の英雄』トワなのか、黒野永遠なのか。
「…………あの日、塾。どうして来なかったの?」
心臓が痛い。痛みに圧迫され、そのまま破裂してしまうのではないかと思う程。
その言葉を言うのは、酷く勇気が要った。
「…………と、友達と、遊んでた」
いまだ二人は抱き合ったままだ。
幸助にとっては幸運なことだった。
彼女の顔を見る勇気が、どうしても湧かない。
「…………そう。深見くん、神埼くんあたり?」
「…………あぁ。それと、逢沢」
「……コウちゃんのことだから、誘われて断れなかったんでしょ。付き合い良いもんね」
謝らなければ。
謝るのだ。
一言、ごめんと。
でも、言ってどうなる。
許されるようなことではないと、他ならぬ幸助自身が思っているのに。
「あの日ね、トワ、コウちゃんの所為だって、思ったよ」
「――――ぃ、あ」
変な声が出た。
どんな言葉を吐くのが正解か考える余裕は微塵もなかった。
トワの続く言葉に、幸助は更に驚くことになる。
「怖くて、痛くて、恥ずかしくて、苦しくて、寒くて、汚くて。これ全部、コウちゃんが一緒にいてくれなかったからだって。コウちゃんの所為だって。コウちゃんが悪いって。そう思ったよ。途中まではね」
「…………え」
トワは手を離し、幸助の顔を見た。
兄の頬に爪の割れた手を添え、目許を泣き腫らした顔で微笑む。
「途中からは、『あぁ、コウちゃんがいなくてよかったなぁ』って思ったんだ。だってあいつらずるいんだよ? ナイフとかスタンガンとか持っててさ。五人もいるし。だから、コウちゃんがいくら強くても、きっと無理だった。だから、だからね? トワ、別に怒ってないよ?」
「違う!」
幸助は叫んだ。
叫ばずにはいられなかった。
「それでも一緒にいるべきだったんだ! 俺は兄貴なんだから! 母さんも父さんも、俺がお前を護ると思って塾に通わせてたんだ! 俺はそれを、知ってたのに! 一日くらい大丈夫だって思った! お前が苦しんでる間、笑ってた! ずるいのは俺だ! ……全部、俺が」
涙が溢れてくるのを止められない。
この世で不幸な人間なんていくらでもいるという当たり前を知識として知りながら、どこか他人事のように思っていた。
レイプも凍死も単語としては知っていたが、実際に起きる現実だとは認識していなかった。
妹にその言葉が当て嵌められるという、起こってもおかしくないそれを想定出来なかった。
あの事件は、幸助の見通しの甘さが許してしまったものだ。
だから、優しい言葉を投げかけないでほしい。
あの日の幸助の過ちを、間違っても肯定しないでほしい。
トワはそっと、幸助の涙を指で拭う。
「あいつらのが、終わった後、ね。服は燃やされちゃって、すごく寒くて。頭も上手く回らなくてね、でもトワ、悲しくは無かったよ。コウちゃん、家帰れたかなって、今日一緒にいなくてよかったなぁって。もう死んじゃうかもってぼんやり思って。もうみんなと逢えないのかなとか思ってね。だから、お願いしたの。お父さんと、お母さんと、コウちゃんは、不幸になりませんようにって。……結局、叶わなかったみたいだけど」
涙が止まる気配は無かった。
完全に理解したからだ。
加護『トワの祈り』は、死んだ妹の祈りではなかった。
死の淵で、家族の幸福を願った妹の想いだ。
そもそも気付くべきだったのだ。
自分が死ぬ場面で兄を恨むような妹から、加護なんて得られるわけが無い。
どれだけわがままで生意気でも、その心根はどこまでも善良で心優しいのだ。
幸助はそれを、知っていたのに。
恐怖で、忘れてしまっていた。
「……馬鹿だなぁ、コウちゃんは。あんなやつら殺しても、良いことなんかないのに」
「……それでも、何一つ得られるものがないんだとしても、許せなかった」
「それで、終わった後は自殺って。お父さんとお母さんのことちゃんと考えてあげてよ。娘に続いて息子まで死んじゃったら、ど、どれだけ……悲しむか」
そう。幸助は結局逃げただけだ。
あの世界で、あれ以上生きるのが辛くて。
他人の迷惑なんて考えず、自殺して終わらせようとした。
「でも、お前に逢えた。もう一度、逢えた」
「……ふっふっふ。最愛の妹に再会出来たのが……泣くほど嬉しいか、し、シスコンめ」
もう、二人共だらしない泣き顔を隠そうともしない。
エルフィはいつの間にかいなくなっていた。
気を利かせてくれたのだろう。
「あぁ、嬉しかった。嬉しかったんだ……お前が生きててくれて。あぁ、幸せになれるチャンスが、与えられたんだって」
もう一度、抱き締める。
ずっと、彼女が死んでから今までずっと胸の内に収めていた言葉を、吐き出す。
「……ごめん。あの時、塾サボって……。俺、ずっと、それ、謝りたくて……。ごめんな、兄貴なのに、大事な時に……近くにいなくて」
妹はあやすように幸助の頭を撫でる。
「いいよ。許してあげる。……こんなこと言っちゃだめだと思うんだけど、五年間、よく頑張ったね。トワの為に、頑張ったんだよね。人殺しは悪いことだけど、コウちゃん……それくらい、怒ってくれたってことだよね」
「今度は、もうお前を死なせない」
「……不老不死にでもするつもり?」
「そういう、意味じゃない」
「わかってるよ。それより鼻水拭きなって」
彼女はバスローブの袖で幸助の顔を拭いた。
「お前だって」
幸助もコートの袖で彼女の顔を拭く。
しばらくして、二人は気づいた。
「自分の顔は自分で拭けばいいんじゃ……」
同時に同じ内容のセリフを言う。
何秒かの沈黙。
やがて、二人は顔を見合わせて笑う。
最初は微かに。
次第に、悲しみを吹き飛ばすように大きく。
これで、全部解決なんかではない。
彼女の苦しみはこれからも続く。
幸助達の前に立ちはだかる問題は山積みだ。
でもこの瞬間、この時間だけは、笑い合っていい筈だ。
今だけは、兄妹水入らずを許されていい筈だ。