68◇黒の英雄、打擲ス
「見ず知らずの奴隷の為に魔法具持ちと戦い、自分の女でもない給仕娘の為に英雄と戦い、浅ましくも己で英雄を目指す無能の訓練に付き合う。そんなクロさんの弱点は――その偽善ですよねー? 【焼き尽くせと命ずる】」
アリスが誰を狙うかは分かっていた。
グレイだろう。
そうすれば幸助は彼を守るか救うかする為にアリスから離れ、形勢を立て直す時間が生まれる。
戦いにルールなど無いのだから、敵の弱みを突くという選択は非難されるどころか称賛されて然るべき。
冷徹に、それでいて敵の熱量は適切に計る。
アリスは歪んではいるが、ものを考える脳はあるようだ。
とはいえ、それは幸助も同じ。
「…………あらあらあらー、対策されてましたかー」
グレイが燃え上がるより先に、彼の全身を『黒』が包み込む。
彼を襲った炎はすぐに『併呑』されて消滅する。
事前に用意していた対策だ。
そして、幸助が自分から距離と置くと考えていたアリスの思考には、予想が外れたことにより一瞬の空白が生まれる。
次の動作までにラグが生じる。
それを見逃す幸助ではない。
左の拳を、彼女の腹部へ叩き込んだ。
「――ッ!?」
英雄の打擲、その衝撃は背後の壁すら破壊し彼女の身体を吹き飛ばす。
アリスまるで蹴飛ばされたゴム毬のように地面を転がる。
彼女は壁の向こう、研究室の外側に設けられた庭へ放り出され、そう広くない庭の壁に激突してようやく止まった。
そこに至るまでに衝撃の大部分は減衰されていたというのに、彼女を受け止めた壁に亀裂が奔る。
アリスは苦しげに表情を歪め、腹を押さえながら嘔吐いた。
吐瀉物が雑草混じりの地面に撒き散らかされ、彼女の衣服すらも汚す。
「……ふ、ふふっ」
それでも、彼女はすぐに笑みを取り戻した。
「何がおかしい」
彼女の顔は、恍惚としている。
「女の子のお腹を殴るなんて、だめじゃないですかー。赤ちゃん作れなくなったらどうするんです? それとも、暴力的なのがお好みですかー? だったら……我慢しましょうかねー」
余裕、とは違う。
彼女はきっと、最終的には自分の目的が達成されると信じきっている。
今までの人生がそうだったからかもしれない。
あるいは、そういう歪みを持って生まれてきたのか。
「もう喋るな。ゲロ臭いんだよお前」
「酷いですねー。あなたの所為でこんなことになってるんですよー? あ、これだとまるでつわり中みたいですね、ふふふ」
「【黒喰】」
半月状に固められた『黒』き刃が三つ、彼女に殺到する。
「わわわ、危ないですねー」
彼女はすぐさま立ち上がり、転がるようにしてそれを回避。
「【黒葬】」
しかし彼女の進行方向は既に『黒』に侵されていた。
そこから柱が突き出て、彼女の左腕を呑み込んだ。
再び、装着していた魔法具を回収。
「……、あ、あははー。そういえば、特殊な性癖に欠損っていうのがありましたねー? クロさんが楽しめるというのであれば、お付き合いしますよー? 何度でも壊して直して、好きに遊んでくださいなー」
幸助は無言で彼女の傷を『無かったこと』にする。
「どうして治しちゃうんですかねー? 余裕の表れ? 危機感の欠如? 棄てられない偽善? ……違いますよねー? 【槍と成れと命ずる】【吹き荒べと命ずる】【悪神穿つ槍と成れ】」
『地』魔法によって土から槍が生み出され、それが『風』魔法で宙に浮く。
そして『貫通』魔法によって貫通力を高めたのだ。
「リガルさんの仇を討つなら殺すだけで済む筈です。なのになんでそうしないのでしょうかー? 苦しめて殺したい? 違いますよねー。ならもっとエグいやり方が幾らでもある。そもそもですよー? この作戦って必要ありませんよねー? 少なくとも今やる理由は無い。私達の目的が分かっているなら、ルキウスさんやパルフェさんが狙われるのを待つもの手ですよねー? じゃあなんで今なんでしょー? ……クロさん、あなたトワさんを救いたいんですねー?」
幸助は答えない。
「わかりませんねー。偽善と言えばそれで終わりですが、やっぱり納得が行きません。何か、ピースが足りないような……。もしかして、あぁいうのがタイプなんですかー?」
「お前よりは、余程魅力的だろうよ」
「じゃあ、用意しますよ」
「あ?」
「彼女を救い出すのはもう無理なので、同じ見た目、同じ声の人間を用意します。セイケイ? とか言うんでしたっけ? そういう技術もありますから。もちろん性格も寄せますが、そこはクロさんのお好みを教えていただければそのように私が『調教』しておきます。どうですか? それなら私と戦う理由も無いですよねー? グレイさんを洗脳して二人でえっちでもしましょうよー」
この期に及んで、何を言うかと思えば。
根本的に、幸助という人間を計り間違えている。
いや、彼女の言葉を借りれば、その在り様を幸助が理解出来ないだけか。
会話は成立するのに、それは対話に届かなくて。
同じ世界に立っているのに、同じ次元に存在しない。
精神の階層が、ズレているから。
致命的なまでに。
「お前と交渉はしない。いいからそのクソみたいな魔法を撃って来い」
アリスは理解出来ないという顔になった。
「なんでですかー? 今の話の一体どこに、不満を抱く余地があったんでしょう……かっ」
言葉尻が跳ねたのは、彼女が転倒したからだ。
彼女の両足首が『黒』に呑まれて消える。当然魔法具も回収した。
今度は『白』で治さずに傷口を『氷』で凍結する。
これでもう、走り回れないだろう。
「自分から逃げられないようにするなんて、独占欲強いんですねー? 大丈夫ですよー、私はどこにも行きませんからー」
どこにも行かないどころか、この世界から消してしまいたいところだ。
「早く魔法を撃たないと、ご自慢の魔法具が全部無くなるぞ」
「……おかしいですねー? 言葉が通じないんですか?」
「こっちのセリフだ」
彼女は困ったように笑った。
「……クロさんが何を言っているのか、ちょっとよくわからないですー」