39.556◇処女、煩悶ス
全ては幸助の一言から始まった。
「デートしよう」
朝、ミルクを飲みながら彼は言う。
「でぇっ、でぇと……」
カウンター挟んだ反対側でグラスを磨いていたシロは、固まる。
「明日非番だろ? もうプラスとクウィンにも言ってあるから大丈夫だ。俺も迷宮攻略は無し。ってなわけで、デートしよう。カップルはデートをする筈だ」
「それは、そうかも、しれない、けど」
「本当は男がリードすべきなんだろうけど、来たばかりで何処に連れて行ってあげればいいか分からないんだ。情けないけど、そういうわけでシロに案内してもらえると嬉しい」
思えば、彼はストレートに思ったことを言う。
だから、デートしたい時は、ただそう伝えるのだろう。
大人の駆け引きのようなものは挟まず、素直に。
シロが答えないので、幸助が気まずそうにミルクを啜った。
「…………嫌なら、断ってくれて大丈夫だが」
「いやじゃない! …………けど…………し、したことないから」
「そっか。じゃあ二人で適当にブラブラしよう」
幸助は柔らかく微笑んだ。
そこに、馬鹿にするような響きは無い。
何処に行こうかと少ない候補の中から悩む幸助に、シロはぼそりと言う。
「クロの家、行ったことない」
今日は、彼とエコナが生命の雫亭から新居へ引っ越してから、既に四日目だった。
「そういやそうか。じゃあ来る? ……いやでも、いいのか」
「何か問題あるの?」
「俺は無いが……まぁシロが来てくれるなら、俺は嬉しいよ」
「そう。朝、こっちから行く。場所はグラスに位置情報送ってくれればいいから」
なんだか恥ずかしくて、素っ気ない対応になってしまうシロに、幸助は気を悪くすることもなく「あぁ、待ってる」と笑みを返してくれた。
ちなみにエコナは朝から仕事だという。
そう、その時は、シロは気付かなかったのだ。
幸助達が迷宮攻略へ向かった後のことである。
「…………あれって、やっぱ『そういうこと』だよね」
一部始終をヴィーネに話すと、「逆に、それ以外に考えられたらすごいわね」と苦笑気味に返された。
そう。
家を提案したシロに、幸助は「いいのか」と訊いた。
それは「デートが家なんかでいいのか」では無く、「俺一人しかいない家に来るってことはそういうことになるけど、いいのか」という意味だったのだ。
しかし、気付いたところで後の祭り。
「断ったら、クロ、とっても傷つくでしょうね」
「うぐっ」
「ただでさえ、お預けを喰らってるわけだし」
「うぐぐっ」
「何がそんなに嫌なのかしら?」
「嫌、とかじゃなくて……」
「なくて?」
「…………は、恥ずかしい、でしょ、そういうこと」
ヴィーネは出逢って初めて、愚か者を見るような目でシロを見た。
「……ままごとに興じる女の子みたいなこと言うのね。あなた幾つだったかしら」
「うるさいな! 十六ですけど!」
「確か、ニホンでは女性の結婚が十六からだったわよね? 結婚がそうなら、処女卒業くらい、もう少し早くて当たり前だと思うのだけれど」
「あたし、五歳の時に来たから……。元いた世界の性事情とか詳しくないし」
「まぁ、この世界だって十五を超えた全員が非処女非童貞というわけでもないでしょうけど、にしても遅れてるわよ、あなた。クロも大変ね」
「ちょっと! あたしとヴィーネの仲じゃん! 今はあたしの味方してよ!」
ヴィーネは五ヶ月前に来た来訪者だ。
当時は十六人まとめて来て、大騒ぎだった。
乗っていた船が沈んで、死んだ乗客の一部――不幸だった者――が此処へ飛ばされた。
ちなみに、レムリアスという、まったく別の異界出身者だ。
森の神殿は日本人が多く来るが、全てが“同じ”日本というわけでもなく、時折まったく別の異界から人が転生してくる。
無数にある異界の中で、特に多くの日本と繋がっている、というのが正確だろう。
「そう言われてもねぇ」
男を魅了してやまない淫靡な唇に、彼女が指を当てながら唸った。
休憩時間、二人してカウンターに腰掛けているからいいが、他の客が見たらそれだけで口説きたくなる妖しさである。
「恥ずかしくない空気を作ればいいんじゃないかしら?」
「た、例えば?」
「お酒を呑むとか」
「やだ! お酒の勢いで初めてとかやだ!」
「…………友達ながら、面倒くさい子ねぇ」
「理想ってものがあるでしょ、誰だって!」
「酒場で働いて、散々男のだらしない本性を見て育った割に、純情よねあなた」
「……うぅ、ヴィーネ冷たい」
「そんなこと無いわ。楽しんでるもの。ところで、マスターはどう思う?」
「へっ?」
気付けばマスターがグラスに酒を注いでいた。
客に出してから、こちらを向く。
「シロ」
マスターが喋る時は、大体真面目な話をする時なので、自然と背筋が伸びる。
「は、はい」
「クロは、お前に惚れている」
知ってますと答えるのは絶対に変なので、頭を掻いて「えへへ」と苦笑する。
「惚れた女が傷つけられれば憤るのは必至。だが、相手が英雄となれば物怖じもするのが人間というものだ」
「……はい」
「客共も、お前を助けに行こうとはした。だが、それは俺がお前を娘と思っているのと、同じ感情から来る衝動だ。家族は見捨てられない。そうだろう」
シロはちょっと涙ぐみそうになりながら、頷く。
「クロは違う。奴は、お前の為に怒り、お前の為に戦い、お前の為に罪を犯した。王室に赦されようと、人を殺めることは罪。それを躊躇わず行う程の価値を、お前に見出している。奴の愛を、疑う者は此処にいないだろう。お前もクロを好いているというのなら、結ばれることに何かを言うつもりはない。それでも、俺は、お前の二人目の父として、言う」
「はい」
「クロ、奴は善良だが、だからこそ危うい。
罪無き者の命に価値を見出すあまり、自身の命を軽んじている。
奴は、おそらく、前世で罪を犯した。
故に、自身を大切に扱うことに、抵抗を感じている。
否、無意識故、感じ取ることすら、出来ていないだろう。
だから、シロ。
奴を選ぶのなら、覚悟を決めろ。
奴が、死を惜しむ程、自分に惚れさせろ。
お前を残しては死ねぬ、お前がいるから死ねぬと思わせろ。
それが出来ないなら、お前は奴を愛するべきではない」
言って、マスターは厨房へ引っ込んでしまう。
「愛されてるわねぇ、あなた」
「……分かってるよ。そんなの、疑ったことない」
シロはずずずと鼻を啜り、決意するように顔を上げた。
「決めた。あたし、頑張る!」
「おめでとう。下着選びなら、アタシに任せて」
「急に活き活きとしてきたねっ!?」
清純路線で行こうというシロと、過激に行こうと推すヴィーネの口論は激化の一途を辿ったが、最終的にクララの「処女が気取っても痛いだけでしょ馬鹿なの?」という正論によってヴィーネが「……悔しいけど、クララの言う通りね、シロが処女、いえ、超処女だということを失念していたわ」と負けを認めることで終息した。
意見が通った筈なのに、負けた気分になるのは何故だろう。
一つ下のクララにまで、処女とか言われたからだろうか。
ともかく翌日、シロは幸助の家を訪ねた。
来訪を知らせる為に使う金具、ドアノッカー以外を使用すると電流が流れると事前に知らされていたので、慎重に使う。
カン、カン、と音が響いた。
すぐに扉が開く。
ドアの前で待っていたのではないかという速度だった。
「そろそろ玄関の外で待とうかと思った」
「……そ、そんなに楽しみだったんだ」
「当たり前だ。私服見るのも初めてだし」
手を引かれ、家の中に入る。
シロの今日の服装は、丈の短いワンピースの上から、ジャケットを羽織ったものだ。
ワンピースは上部が黒で、下部が白になっていて、所々にレースがあしらわれている。
ジャケットは落ち着いた紺色で、袖口と襟元に白い装飾が施されていて、気に入っていた。
靴下はすべすべした素材で作られていて、太ももあたりまでを包んでいる。
「うん、可愛いよ。ベッドに行こう」
「はやっ!? ムードとかまったく考えないよね相変わらず!」
幸助は「冗談だ」と笑ってから、椅子を引いた。
「座ってくれ。なんか飲む? 見ろよ、『氷』魔法具で冷蔵庫まで再現されてるんだ」
「あぁ、あたしは朧げでよく覚えてないから懐かしめないけど、現実にあったハイテク機器は、来訪者からの知識提供もあって結構再現されてるみたいだよ。グラスを通した情報媒体購入も可能で、えーと、なんだっけ、紙じゃない本」
「…………嘘だろ、ファンタジーの癖に電子書籍とか言い出すのか」
「そうそう、それももうあるよ。場所取らなくて済むから、庶民的には大助かりだよね。あと紙版より安い!」
「その内、此処もビル街になったりするのかな。それはちょっと嫌なんだが」
「全部が全部受け入れられるわけじゃないから、どうだろ。今の生活に役立つ形ならともかく、これまでの在り方と違うものを強制されるのは皆嫌でしょ。仮になるとしても、結構時間掛かるんじゃないかなぁ」
思ったよりも普通に会話出来ていることに、シロは大きく安堵した。
水で良いというと幸助は「じゃあ俺も」と笑って、グラス二つに水を注いだ。
そして、シロの対面に腰を下ろす。
「そ、それで、今日なんだけど」
「あぁ、寝室は二階だ」
「グイグイ来るねさっきから!」
「緊張を解そうとしてるんだ」
「逆効果なんだけど!」
「シロが嫌がるならしない。別に、急ぐつもりもないよ」
「…………クロ」
「枕は既に二つ用意したけど」
「疲れ果てて寝た時のことまで想定してるじゃん!」
ぜぇぜぇと、ツッコミに疲れて荒れた息を整える。
幸助はそれを楽しげに見つめて、水を口に含んだ。
がっついているように見えるのは演技で、どう見てもシロの狼狽を楽しんでいた。
「冗談はここまでにしようか。何か真面目な話があるんだろ?」
さすがと言うべきか、おそらく最初から気付いていたのだろう。
であれば、緊張を解そうとしていたという発言も、まるっきり嘘というわけではないのか。
「うん。その、さ。あたしのことは、もう大雑把に知ってるよね。あ、過去のことなんだけど」
「あぁ。思い出す度にライクを殺して正解だったって思うよ。……つまりあれか? 彼氏の昔話が聞きたい的な? 可愛いとこあるねお前も。あんまり話したくないんだけどな~」
「本気なの。きみのこと、知りたい。知って、確かめたい」
幸助の瞳から、諧謔を楽しむ光が消える。
「……えぇと、何を?」
「あたしに、きみを愛する覚悟があるか」
「俺の前世が人間失格だったら、振られるってこと?」
「違うよ。きみを受け入れるだけじゃなくて、支えたり、時に引っ叩いてでも軌道修正してあげられるようになりたいんだ。だから、きみがきみになった理由を、知りたい」
「…………いや、女の子には刺激が強いと思うけど」
「なに怖がってんの。嫌いになったりしないから話しなって」
彼にしては珍しく、言い淀んでいる。
それだけ、語りたくないということか。
「じゃあ、教えてくれたら、寝室、行ってもいい、よ?」
「始まりは五年前――」
「ほんとブレないな!」
彼はまた、少し笑って「冗談だ」と言う。
「……正直、怖いんだ。本当に、本当に最低なことをしてきたから。今、皆の前で見せてる俺と、前世の俺は、違うから。きっと、失望される」
「うん、するかもね」
「……だろ。だから――」
「でも、嫌いにならない」
「――――」
「きみが、この世界でやったことは、嘘にならないよ」
幸助は、目元を苦しげに歪めて、視線を下げる。
「そ、れは……。でも、逆も同じだ。前世でやったことは、無くならない。たまに、お前や、エコナ、他の奴らと仲良くする資格が無いんじゃないかって思う程なんだ。自分の手が、真っ黒に見えて、触ると、お前らにそれが移るんじゃないかって、怖くなることもある程なんだ」
シロはテーブルに片手をついて身体を乗り出し、もう片方の手で幸助の腕を取ると、自分の顔に彼の手を無理やり当てた。
「なりませんけど、黒くなんか。自意識過剰じゃない? 乙女かよきみ」
彼は焦ったような顔をした後、結局、力無く笑う。
「…………うるさいよ爆乳。揉みしだくぞ」
「はいはい。全部話してくれたらね。いいの? このままエコナが帰ってくるまでだんまり続ける? 別にあたしはいいけどね~」
幸助は、彼らしくない自虐的な笑みを浮かべて、やがて息を吐いた。
「いいよ。話す。話して乳を揉む」
それから、彼は過去を語った。
自分の過失が妹の死を招き、その仇討ちに五年を費やしたのち、自殺を試みたのだと。
「…………とまぁそんなわけでだな、あー、とても人様に自慢出来るような人生を歩んでこなかったわけだ。その反動ってわけじゃないけど、この世界では善人ぶってるだけなんだよ。自分の為に人が殺せる人間なんだ。多分、俺とライクは、人間としてあまり変わらない」
「違う!」
シロが突然叫んだからだろう、幸助は目を瞠って、苦笑するように口の端をひくつかせた。
「違う、のかな」
「違うよばか。あいつは、自分の為だけに人を利用して傷つけたんだ。でもきみは? 自分の為って言うけど、妹さんを大切に思ってるから復讐しようと思ったんでしょ? 大切だったから自分を許せなかったんでしょ? あたしの時だってそうだ。あいつに馬鹿にされても気にしなかったくせに、あたしのこと言われた途端喧嘩買ったって言ってたよあいつ。きみは、誰かの為に怒れる人だ。それすらも、自分の為って言っちゃうような、ばかな善人だ」
幸助は何か言おうとして、結局何も言えず、唇を噛んだ。
「でも、わかった。きみは、もう二度と後悔したくないんだね。だから、迷わず人を助けるんだ。後でそれが、“後悔”として自分を苦しめないように。確かに、自分の為に生きているかもね、きみは」
「……あぁ、そうだよ。そんなもんだ、俺は」
「なら、これからはあたしの為に生きて」
幸助はポカンとした。
「……………………えぇと、あ、あぁ、幸せにするって、俺、言ったもんな。なるべく、そうするつもりでいるよ。なるべくっていうか、絶対」
「そうじゃなくて、だから……! きみが自己満足で死んだら、あたし泣くぞ! みんな泣く! きみの所為で、皆苦しむ! それが嫌なら、死なないで」
しばらく、言葉を咀嚼するように、幸助は黙っていた。
やがて、口を開く。
「話聞いて、それでも、そう言うのか」
「五年も、きみは苦しんだよ。五年間、たった独りで。その頑張りを、誰にも認められないと知りながら。これから、何十年も、幸せでいていいと、あたしは思う。罪は罪だけど、前世の罪を裁く機関はこの世界に無い。だからって、無罪放免とはいかないかな。きみは、これからの善行で、きっと償いをしていくんだと思う。それは、あたしに否定出来ることじゃない。けど、あたしと一緒にいるなら、あたしを幸せにしてくれるって言うなら、死んじゃだめ。今ここで、約束して」
幸助を見ると、俯いていた。
肩が震えているので泣いているのかと思いきや、笑っているようだ。
彼は突然立ち上がり、シロを、抱き上げた。
俗に云う、お姫様抱っこで、だ。
「誓う。ジジイになるまで死なないよ。だからバァさんになるまでお前も死ぬな」
彼があまりにも爽やかに言うものだから、シロは呆気に取られてしまう。
「シロ。やっぱりお前に逢えてよかったよ。この世界の出逢いには、一部を除いて感謝しかない。皆大好きだ。中でもシロは特別」
シロはふと気づく。
いつの間にか移動していた彼が、シロを抱えたまま階段を上っているのだ。
「ちょっと……どこ行こうとしてるの」
「言わせたいのか?」
シロは、文句を言おうとして、寸前で考え直す。
もはや、抵抗する理由が無い。
「…………痛くしたら、殺すから」
「あはは、これだから処女は面倒だなぁ」
「あ! そういうこと言うんだ! もう殺す! 今から殺す!」
言って、彼の胸を殴る。
彼はそれを受けても、笑っている。
もうすぐ、階段の終わりが見えた。
すぐに、扉が見えてくる。
シロの考えは、今自分が穿いてる下着がどう評価されるか、というものへシフトしていった。