39◇黒野幸助、歩み出す
木組みのベッドが軋む音で、目が覚めた。
「あ、ごめんなさい、起こしてしまいましたか? ……こうすけ、さん」
「……ん、いや、大丈夫だ」目をこすりながら、幸助は言う。「おはよう、エコナ」
氷細工のような透き通る瞳を、笑みの形に緩めて、彼女は微笑んだ。
「おはようございます」
朝だ。
それも、早朝に近い時間。
「今から、仕事か」
あれから、一週間が経過していた。
二人はまだ、生命の雫亭で寝泊まりしている。
幸助用の住居を、ダルトラが有り物ではなく新たなに建造したいと言うので、時間が掛かっていたのだ。
とはいえ、それも魔法技術とやらで大幅に完成までの時間が短縮出来るらしく、完成は今日と聞いていた。
「今日は午前で終わりだよな? 午後から行くぞ、新居」
「は、はいっ。……で、ですが、幸助さん」
「ん?」
「新しい、お家って、此処よりも、大きいですよね?」
「あぁ、エコナ用の部屋もちゃんと用意するよ」
喜ぶかと思えば、彼女の表情は曇っている。
「……もう、こうすけさんと、一緒に寝ること、出来ない、ですか?」
幸助はベッドから起き上がり、彼女の髪を梳くように撫で付けた。
「じゃあ、寝るのは一緒にしようか。でも、いつまでもはダメだ。一人で寝れるように、ちょっとずつ慣らしていこう。それでいいか?」
エコナは笑うのを堪らえようとして、失敗するような形で、ニヤニヤしていた。
幸助はその頬のぷにぷにとした感触を手で楽しむ。
しかしそれも、すぐに翳りが差してしまう。
エコナは幸助の手を取り、やさしく包み込みながら、悲しむように言った。
「こうすけさんは、シロさんと……恋人、ですものね。あんまりわたしが、その、独占のようなものをするのも、失礼ですし」
一部の人間は、シロと幸助の関係を知っている。
エコナと一緒に寝ていることで、確かにあれから、シロと『そういうこと』はしていない。
子持ちが恋愛に苦労するみたいなものだろうか。
確かに男としては辛いものがあるが、それをエコナの所為にしようとは思わなかった。
「仮に。仮にこれから先、妻が何人出来ようと、お前をないがしろにすることはない。それだけはないよ。俺が誓いを立てたこと、忘れた?」
エコナは、もう、これ以上ないくらいだらしなく、相好を崩した。
「…………ふふふ、えへへ。お慕いしております、幸助さん」
幸助の手の甲に、ちゅっとエコナの唇が触れる。
「ご朝食、お召し上がりになられますか? 今なら、わたしがご用意させていただきますが」
「あぁ、じゃあ、お願いするよ」
頭を撫でると、彼女はくすぐったそうな顔をした。
料理を作りに、部屋を出て行く。
余談だが、エコナはもう奴隷ではない。
幸助が、ソグルスの腕輪を奉上した際の報奨として望んだのだ。
例えば敵国の要人に、祖国を裏切らせる為、その者が望むものを用意することが、間々ある。
そういう亡命者は、とはいえ敵国の人間だ。
だから、こういう時の為に、名誉臣民制度というものがあった。
来訪者に与えられるものも、同じだ。
つまり、ダルトラ出身者ではないが、王室によって臣民として認めるという特例。
通常、天と地が引っくり返っても、奴隷を名誉臣民にすることは無い。
今回の措置は、ダルトラ建国以来初の、異例らしい。
それも、幸助が『暁の英雄』を倒す程の強者であり、『黒の英雄』だからこそ許されたのだろう。
ちなみに、幸助が完全な形で使えるのは『黒』『火』『暁』だ。
『白』『蒼(氷)』『紅(炎)』『神癒』は獲得し、使用可能というだけで、その熟練度は本来の遣い手に遠く及ばない。
ライクとの戦闘時に単純な使い方しか出来なかったのが、良い例だ。
ありがたいことに魔術適性は手に入れたので、訓練次第で成長は見込めるだろう。
起きて、コートだけ羽織り、階下へ降りる。
客入りは四割程。
顔見知りと挨拶を交わし、カウンターに座る。
定位置となっていた空席に腰を下ろすと、既にいた二人の知り合いが、声を掛けてきた。
巨乳女医エルフィと、堅物眼鏡娘プラスだ。
「おはようクロ。アタシは気にしないでいいわよ。朝から呑んだくれてるだけだから~」
と言うので、気にしないことにする。
白衣では隠しきることの出来ないプロポーションに、一瞬見とれるに留めた。
「小官のことは、気にかけてもらわねば困るであります。今日も迷宮攻略に付き合っていただければと!」
そう、この一週間、幸助は約束通り彼女をパーティーに入れて攻略に臨んでいた。
根が真面目で元々が努力家だったからか、筋は悪く無い。
自らが望む英雄となれるかは別だが、付き合えるところまで付き合うつもりだ。
マスターが無言でミルクを出してくれたので、視線で感謝を示してから、口に含む。
「あぁ、いいぞ。お前が一人で魔法具持ち倒せるようになるまでは、付き合うさ」
ちなみに、プラスは軍人を辞めた。
軍務があっては、迷宮攻略に赴くことが出来ないからだ。
本家にも大変叱られたようだが、今の彼女は活き活きとしている。
「わたしも、行く」
いつの間にか、クウィンが隣に座っていた。
幸助は別段驚くことなく、応じる。
「いいけど、『白』は使うなよ。プラスの訓練にならない」
幸助も同様に、なるべく経験を積むべく、使う魔法を制限したりなど工夫していた。
【黒迯夜】発動に掛かった精神汚染値は、シロとのイチャイチャで即座に下がったが、そう安心出来る結果も迎えられなかった。
どれだけの幸福を感じても、汚染値がゼロにはならないのだ。
おそらく、そうやって、少しずつ『取り返しの付かない汚染』が蓄積していくのだろう。
考えなしに【黒迯夜】を頼ることは、避けるべきだ。
自分自身のレベルが上がれば、自然と『黒』の力も、上がっていくのだから。
幸助の言葉に、クウィンは「うん」と頷いて、次の瞬間、幸助の腕に自分のそれを絡ませた。
豊満な胸が作り出すフワフワの谷間に、幸助の腕が包まれる。
「ちょ、ちょっとクリアベディビア卿!? うちのクロにちょっかい出さないでください!」
モップ掛けをしていたシロが、まるでそれを武器のように持って駆け寄ってきた。
「まぁまぁシロ。クウィンも別に悪気があるわけじゃないんだし」
「ある。悪気。シロから、クロ、とろうと、してる。どう? わたしのに、ならない?」
「ねぇクロ、そういえばあたし不思議だったんだけど、なんでクリアベディビア卿のこと、クウィンって呼んでるの? 式典前からだよね? 変じゃない?」
シロの目が、にわかに責めるような色を帯びる。
「仲良し、だから。シロの目を盗んで、仲良く、してる。ちゅーも、した。ね?」
「いや、その表現はおかしい。よくない誤解を招く言い方だ」
「クロ? 話聞かせてくれる? あたしの目を盗んで、なに?」
シロから殺意らしきものが迸った。
幸助は焦って、周囲に助けを求める視線を向けた。
エルフィはこちらを指差してケラケラ笑っているし、プラスは何を誤解したのか顔を真っ赤にして俯いているし、マスターは我関せずを貫き、ヴィーネはクスクスと笑いながら給仕を続け、周囲の客は修羅場だなんだと囃し立てた。
シロとクウィンは幸助を巡って言い争いをしている。
そこに、朝食を持ったエコナが現れた。
半液体状の、トマトケチャップに似た調味料で、ハートが描かれていた。
この世界でも、そのマークが意味するところは、同じらしい。
シロの目が犯罪者でも見るようなものに変わり、クウィンが面白くなさそうな顔をした。
エコナは首を傾げている。
幸助は、本当にこの世界に来れて、良かったと思っていた。
毎日、明日を迎えるのが楽しみでならない。
この世界は、確かに来訪者が幸せになれる土地だ。
けれど、今この瞬間だけは。
どこか別の場所へ、逃げ出してしまいたかった。