30◇英雄、惑乱ス
目の前に、妹がいる。
永遠がいる。
幸助は、固まった。
それはそうだ。
咄嗟の交通事故に見舞われた際、人間が回避行動を執れないという現実が間々ある。
人間が、ある刺激に対して反応を行うまでには、三つのステップがあるという。
すなわち、
『認知』――それが、どういうものか。
『判断』――それに対して、どうするか。
『実行』――判断を、現実に反映させる。
想定外の事態に直面した時、想定外のあまり、人は認知に手間取る。
よしんばそれが済んでも、判断はすぐに下せない。
そんな時に巡るのが、走馬灯だ。
判断を促す情報を、全記憶を洗い出して、検索する行為。
幸助の今の状態は、『認知』で止まっている。
永遠だ。
身体は成長しているが、永遠で間違いない。
なんで、失念していたのだろう。
レイプされて、独り凍死した少女が。
不幸でなくて、なんなのだ。
何故、思い至らなかった。
簡単だ。
【加護】『トワの祈り』があったからだ。
彼女の魂は、元の世界できちんと天へ昇り、そこから幸助の為に祈ってくれていたのだと、勝手に思い込んでいた。
だって、よく考えてみろ。
加護は、この世界の神か、でもなければ異界の霊的存在によって与えられるもの。
幸助が、『トワの祈り』を守護霊によるものかとシロに尋ねた時、彼女はなんと答えた?
――『それに近い何かだね。生存率極度上昇だから、余程キミに生きていてほしいと願っていたんだろう』。
それに“近い”、“何か”。
“願って”、“いた”。
つまり、守護霊そのものとは、一言も断言しておらず。
願い続けていると、進行形で表現しても、いなかった。
人が、世界を超えられるなら。
想いが、世界間の壁に阻まれる道理は無い。
アークレアに来た妹が、兄を想うだけで、加護を得ても、おかしくない。
どう、判断したらいいのだ。
喜ぶべきか?
喜んでいいのか?
彼女が生きていたことに、涙していいのか?
その資格が、自分にあるか?
間接的に彼女を殺した自分に、兄貴面する権利が、欠片程でも残されているか?
永遠が、幸助の前に立つ。
妙なことに、兄を見ても何ら反応を示さない。
五年の歳月だ。
背格好も変わった。
兄だと、分からないのかもしれない。
何か。
何か、言わなければ。
そう思う程に、喉が乾いて、発声を阻害する。
「トワ、こちらが――」
互いに黙っていることに気まずさを覚えたのか、ルキウスが気を利かせて幸助のことを紹介しようとした。
しかしそれを、永遠が視線で制する。
「この人が、一番新人。一番、格下。挨拶は格下から。トワは、そう思うけど?」
少し生意気なところも、一人称が自分の名前なところも、変わっていない。
それにしても、新人で、格下ときたか。
その、新人で、格下な男が、兄と知ったら、どう反応するだろう。
泣くか。
それとも、怒るか。
加護を確認した時、幸助は泣きたくなった。
その先の人生を、生きようと思った。
何故か。
自分を殺したかったのに、何故生きようと思ったのか。
幸助は、妹に、恨まれていると思っていたのだ。
兄の所為で死んだと、思われても仕方なかったから。
ずっと、怖くて。
怖くて、仕方なくて。
だから、仇を討って、自殺を試みた。
許されたかったからじゃない。
殺人と自死は、地獄行きの罪と聞いたからだ。
善良な妹は、きっと天国行きだ。
こうすれば、妹に顔を合わせずに済む。
幸助は、逃げたのだ。
最愛の妹に、責められるかもしれないという、恐怖から。
「早く挨拶する。トワはそんなに気が長い方じゃないので、待たせない方がいいよ、新人」
急かされる。
いつもそうだった。
自分は何時間でも買い物をするくせに、幸助がトイレに行ったりする数分すらも「待たせすぎ!」と怒るような、わがままな妹だった。
そのくせ、周囲には良い面を見せようと取り繕う部分があって。
妹でなかったら、ちょっと仲良くなれないなと思ったことが、何度もある。
でも、妹だ。
家族だ。
だから許容出来たし、面倒に思っても、嫌だとは思わなかった。
覚悟を決めて、口を、開く。
「…………永遠」
君の名を、呼ぶ。
永遠は、それに。
不愉快げに、眉を顰める。
「トワは確かにトワだけれど、自分が認めた人間以外にその呼び方は許してないんだ。ルキウスにつられたんだろうから一度目は許すよ。それより、そろそろ名乗ったらどうなのかな」
「俺だよ、永遠――幸助だ」
永遠は、どういうわけか、首を傾げた。
「俺だよって、何?」
訝しげに、こちらを睨んで、言う。
「初対面だよね? きみさ、挨拶もまともに出来ないの?」