290◇何度も何度も振り返り立ち止まり誰も並走出来ないのだと諦めた兎と、黒
――昔からずっとそうなんだ。
――ちっとも分からないんだ。
ジャンヌは不思議でならなかった。
たとえば、大きなものを持ち上げられなくて、困ったとする。その瞬間は、他人の手を借りなくてはならないかもしれない。
だが、また同じことがあったらどうする? どう考えたって、自分で出来た方が良い。
読み書きも、計算も、戦いも、なんだって自分で出来た方が良いに決まっている。
なら、努力すればいいだけじゃないか。出来るようになるまで、やるのだ。それでいいじゃないか。
ジャンヌは勤勉な者や才ある者が好きだった。彼ら彼女らは、まだ戦える、競える。
しかしそれも最初の内だけ。
自分と長く競えるだけの者はいないという現実に気付くまで、そう時間は掛からない。
生まれた村にも、村を出て入った軍にも、国を裏切ってついた敵軍にも、自分とかけっこをしてくれる者はいなかった。みんな走るのをやめ、膝をつき、目を逸らした。
ジャンヌは、飽きた。
なんて不幸なのだろう。
この世は遊び場なのに、自分に合った遊具はなく、自分に見合った友はいない。
自分の死に方についても、ジャンヌは興味がなかった。特に印象に残っていない、というのが正直なところ。
アークスバオナに転生した時、期待が無かったと言えば嘘になる。
明確に神の存在が感じられる世界は面白そうだった。グレアやクロノに出会えなかったら、ジャンヌの暇つぶしは神を探すことになっていたかもしれない。
そうならなかったのは、気づいたからだ。
心だ、大事なのは。精神性というべきか。
天才を前にして諦めない者は、それだけで貴重だ。得難い存在である。やつは別格だと勝手に線を引いて諦める者の方が多い中で、彼らだけが天才に近づける可能性を残している。
そんな得難い存在にも、心の限界はある。いつまで頑張れる? 五年? 十年? どれだけ努力が報われなくても、勝つために努力を続けられる?
強い、強い目的意識がなければ難しいだろう。
妹の仇を討つ、とか。
自分の認めた主に忠義を尽くす、とか。
それを果たすまで止まれないという、何か。
諦めないだけでは意味がない。考え、行動し、目的に近づける者でなければ。
強すぎる心を持つ者は、もはや普通とは言えない。まともな人間が挫けるところを、一歩一歩進み続けられるような精神。
百年や千年でも努力し続けられるような、そんなどこか心の壊れた強い人間でないと、きっと。
自分とは遊べない。
クロノは、その資格があると思った。実際、あった。
そして今、自分は負けようとしている。
彼の手は読めたのに、彼は自分の手が読まれていることまで読み切り、自分が決してしないことを実行。そうしてジャンヌは裏を掻かれ、腹を不壊の剣で貫かれていた。
――負けたくない!
生まれて初めての感情に、ジャンヌの心は乱れに乱れた。肉体の痛みなどどうでもよかった。
あれだけ望んだ自分を越える者、あれだけ望んだ敗北。経験してみたかったそれは、あまりに苦しく、最低のものだと即座に理解した。
ほんの少しだけ、諦める者たちの気持ちが分かってしまった。これまでも情報としては頭に入っていたが、実感を持つことが出来た。
こんな苦しみは、味わいたくない。自分に自信があるほど、努力を積み上げた者ほど、敗北の苦しみは強くなるという。もしそうなら、逃げるのも分かる。勝負しない道へ行くのも分かる。
――あぁ、それでも私は。
決して、この遊びを放棄出来ない。それを今、理解した。
「ふ、ふふ」
ジャンヌは横に跳ねた。剣は刺さったままだから豪快に腹が裂けたが、それでもクロノから距離をとりたかった。一瞬でも迷えば、殺されていただろう。
魔力器官を見事に貫かれた。もう魔力は作れない。体内を流れる魔力で傷口を塞ごうと治癒魔法を掛けながら、生き残る術を模索する。まったく醜いあがきだ。美しさの欠片もない。これが先程まで偉そうに自分を超えてみせろと宣っていた英雄だというのだから、滑稽で笑えてくる。
いや、笑いさえもしない。クロノはただ敵を定め、世界から取り除くために動く。その敵がこれ以上、自分の大事なものを傷つけたり出来ないように。
ジャンヌが並の英雄なら、それで死んでいたという攻撃を五度ほど越えた頃。
なけなしの魔力を止血と回避に使い切り、ようやく、そこに辿り着いた。
亡骸だ。【蒼天の英雄】ルキウス。元ダルトラの偽英雄。彼は過去生で離れ離れになった妹、本物の【蒼の英雄】となったサファイアのために、国と仲間を裏切った。
そしてクロノを追い詰めたものの敗北し、先程ジャンヌが殺した。
ルキウスの頭部に、足を置く。
「……お前、死にたいのか死にたくないのか、どっちなんだ」
「死にたくなくなったんだ。気が変わったというやつだよ。ほら、女心というものは移ろいやすいものだから。一つの主張が永遠だなんて捉えてると、恋人と上手くいかないぜ?」
クロノは仲間を大事に思っている。仲間の遺体を壊されたいはずがない。こうすれば多少は時間が稼げる筈だ。遊び過ぎて、ここまで溜めてた使える駒はほとんど失われてしまったが、自分はジャンヌだ。【教導の英雄】だ。ついさきほどまで敗北を知らなかった乙女だ。
大丈夫。
「凍てつけ」
そう、思っていた。
ルキウスに載せた足が掴まれ、そこからジャンヌの身が氷結される。
【蒼天の英雄】、その氷属性魔法によって。
冷気が一瞬で全身を駆け上がり、ジャンヌと大地を縫い付ける。ジャンヌの体を氷漬けにする。
首から上が無事なのは、聞かせたい言葉でもあるのか。
「……死んだフリとは。そういう動物がいなかったかい? 君ほど上手くはないだろうけれど」
結果を見れば、その過程を読み解くことは出来る。
ルキウスはあの時、確かに致死の一撃を受けた。それを食らわせたのは、『透徹』によって彼の妹に『同期』したジャンヌ自身だ。
その時、確かにクロノがルキウスを抱え、短く言葉を交わしていた。その時か。
『蒼』によって死への進行を『途絶』し、それを『囲繞』属性で隠匿したのだ。
その場で傷が治るまで『治癒』魔法をかけ続けられる状況ではなかった。
だからまず、死を偽装しようと考えたのか。仲間が敵に嘲笑われながら、死にそうなその瞬間に、そんなことを考え、実行したというのか。
そしてジャンヌが愚かにもルキウスに近づいたことで『途絶』を解除したわけだ。
『空間』でジャンヌの眼前に現れたクロノは、ルキウスに『治癒』魔法を掛け、立ち上がらせてから、ようやくジャンヌを見た。
死刑囚を断頭台に掛け、ギロチンを落とすまでの間のような時間だった。
「言ったろ。俺達は、お前を殺すって」
確かにそう言っていた。その時点でルキウスを含んでいたかまでは分からないが、彼は最初から一人で戦っているつもりではなかったということ。
「お前は優秀だよ。その力を正しいことに使えば、大勢の人を救えるかもしれない。けど、きっとしないんだろうな。自分の遊びにしか興味がないから」
「君が人類の敵になればいい。そうすれば、私は世界を救う側に立つだろうね」
「じゃあな」
クロノの剣が、ジャンヌの首に――。
◇
幸助の剣を、受け止める者がいた。
黒く長い髪、銀の瞳、細身だが引き締まった体。忘れるわけもない。自分と同じ『黒』を持つ者。
【暗の英雄】グレアグリッフェンだ。
この戦場にはいない筈の男が、息を切らして幸助と対峙している。
出現したのは『空間』移動によるものだが、ここまでくるのに相当量の魔力を使ったようだ。
「話がある、クロノ」
「……あ?」
ジャンヌを助けに来た……というわけでもなさそうだ。少なくとも、それが主たる目的ではない。
彼の顔には、焦りが浮かんでいる。
「おや、愛しのグレア。こんなところまで助けにくるなんて、まるで白馬の騎士だね、君は黒いけれどこの際文句は言うまいよ。愛しているぜ我が未来の夫」
「ジャンヌ、少し黙れ」
そう言うと、ジャンヌはわざとらしく唇を尖らせた。どこまでもふざけたやつだと思いながら、幸助はグレアを見る。妙なことに、敵意や殺意といったものをまったく感じないのだ。
「俺とお前は友達だったか?」
「分かっている。貴様にとって己が敵だということは。だが、聞け」
「用事が済んでからでいいだろ」
「この女が何をしたにしろ、殺すことは推奨出来ない。アークスバオナの者だからではない、この先の戦いで、必ず役に立つからだ」
冷静な男という印象だったが、今の姿はどこか必死に映る。
「クロ……」
ルキウスの声。今の彼は一応、グレアの率いる旅団所属。話を聞いてもいいのでは、と思うだけの何かを感じているようだ。
グレアは信じられなくとも、ルキウスは信じられる。
「短くまとめろ」
「グラス経由で映像を送る。これを見れば分かる筈だ。これ以上、我々が争っている場合ではないと」
コンタクト型の万能端末グラスに、グレアから映像が送られてくる。
それを再生し、幸助は――心臓が止まるかと思った。
悪魔を名乗る一団と、グレアを含むアークスバオナの人間四人の邂逅。
そこにいた、アルマという人間が明らかに――幸助とトワの、父だったから。
映像内で明確に黒野時匡と名乗り、他人の空似という可能性が消える。消えてはいないのかもしれないが、限りなく低くなる。少なくとも、幸助は別人だとは思わなかった。
父だ。だけど、父なわけがない。父さんが、あんなにも軽く人を傷つけるなんて、そんなこと絶対に起こらない。起こるわけがない。自分と違い、優しく正しい人だから。
「悪魔だ。やつらは人の願いを汲み取り、叶える代わりに体を乗っ取る。元の人間の精神は消えるというより、共有した上で悪魔の側に使用権があるという形を推測している」
状況はこうだ。
グレア達は厳しい戦況に、謎の力で隔離された幻想国家ファカルネの領土を解放、侵略するつもりだった。
結界は解けたが、中から出てきたのは悪魔。
ファカルネに展開されていたのは、外から内を守る結界ではなく、内側に厄介なものを閉じ込める封印だったのだ。
出てきたのは四体の悪魔。だが総勢は十一体。天成罪形を冠する特別な悪魔。歴史から消された存在。悪神の手先。つまり、幸助が討滅しなければならない相手の配下だ。
やつらは悪神を復活させようとしている。
「この映像が本物だって証拠は?」
「提示出来ない。だが連合諸国に向かった悪魔もいる筈だ」
事実なら、放置は出来ない。決して。
「なんでここに来た」
「これ以上、この戦いで戦力を消耗するわけにはいかないからだ」
それは、悪魔との戦いに備えなければならないから、人同士の戦いなどしている場合ではないということか。
しかし、そもそもアークスバオナにはほとんど猶予がない。枯れた大地に住まう人々に、休戦は死刑宣告に等しい。残る道は自壊と降伏以外になくなるだろう。
――待て。
「悪神はアークスバオナにいるのか?」
彼は【暗の英雄】。概念属性を有する『黒』保持者。どこかで神の一部を食らったか、与えられでもしないとそうはならない。だから、予想される事態の一つではあった。
グレアは目をつむり、天を見上げた。それから、こちらに視線を戻す。覚悟を決めたように、頷く。
「……そうだ」
幸助はクウィンの呪いを剥がしたことで神に呪いを刻まれた。
一年以内に悪神を滅ぼさなければ、魂が消滅する。
「何故殺さない」
「悪魔と同じだ。悪神は人に憑いている」
「それでも……いや、そうか――皇后なんだな」
アークスバオナ帝の正妃は、ある時期から姿を見せなくなったという。
彼の国の者で幸助たち連合側につくと約束した『薄明師団』は、正妃の娘である第七皇女麾下だ。
皇女はリオンセル皇が母を閉じ込めているか殺したと考えており、狂った父の狂ったやり方にはついていけないとクーデターを画策。
消えたのではなく、悪神に憑かれたから隔離するしかなかったのではないか。
クウィンが旅団に在籍していた時期に、記憶の抜けがあることを幸助は確認済み。『白』属性で助けようとしたのかもしれない。悪神の呪縛を『否定』出来ないか試みたのではないか。
アークスバオナは仲間を重んじる。ジャンヌのような例外もあるが、基本的にそういう気風だ。
その頂点たる皇帝が、愛する妻を、悪なる神に奪われたからといって諦めるだろうか。
諦めなかったのだ。
そしてその悪神を今、悪魔達が救い出そうとしている。
その中には幸助とトワの父、その体を奪った悪魔が混ざっていて。
更には、あの場にいなかった悪魔達が、優れた肉体を求めて今もアークレアの大地を徘徊している。
……くそ。
これは本当に、人間同士で争っている場合ではない。
仮にもこの場の将であるジャンヌを今殺しては、収拾をつけるのにどれだけ掛かるか。演出されたものだとしても、敵兵が彼女に感じているカリスマは本物。
「……俺とジャンヌ、そしてグレアで停戦命令を出す。ひとまずこの場の戦いは収め、各国の代表に今の話と映像を」
「異存ない」
「言っておくが、こっちで捕らえた奴らはそこのジャンヌ含め、捕虜にする。その後どうするかは、こっちが決める」
停戦するからといって解放するわけにはいかない。
敵対時に双方が与えた被害や、互いに抱く恨みは軽視出来ない。
「え? 今のは敵同士が手を取り合ってより巨大な悪に立ち向かうシーンだろう? 禍根は水に流すなり横に置いておくなりしないと。私は死ななくてラッキー、君たちは私を仲間に出来てラッキー。そう考えよう」
やっぱりこいつ、殺した方がよいのではないか。そんな思考が、一瞬頭をよぎる。
【霹靂の英雄】を殺し、その罪を妹に着せて危うく死刑寸前まで追い詰めたアリスさえ、幸助は手勢とした。使える者は使う。そのための切り替えは出来るつもりだ。
今は切り替えるべき時。
「お前が必要かは、みんなで決めるよ。要らなくなったら、ちゃんと『併呑』してやる」
「未来の夫グレア、たすけて……」
わざとらしく甘えた声を出すジャンヌに、グレアは眉を顰めた。
「頼むから黙っていろ。クロノらを説得する気が失せそうだ」
こんな形は予想していなかったが、ロエルビナフ首都を舞台にした戦いはここに終わる。
だが、これより始まるは、人の体に憑く悪なる魔と神との戦い。
神話時代の続きを引き継ぐような争いの気配に、幸助の表情が歪む。
英雄として、次なる争いについて考えながら。
兄として、父の件をどう妹に伝えるかについても悩んでいた。