289◇あぁそうか私はきっとこの感情を知る為に
ジャンヌが幸助に向かって駆け出す。
残る【黒球】が彼女を襲う。進路上に現れたり、低空を飛んで近づいたり、真上から落下したりと様々な方法で接近を試みる。
「これは『蒼』入りだったかな」
彼女が前方に宝具を突き出すと、棒が急速に伸びた。先程の槍と同じ要領で『黒』を突破するつもりのようだが、『黒』は宝具をも呑み込――。
「言ったろう、私用に作ってもらったって」
宝具は基本的に壊れない。
全てが『不壊』の装備であると言える。
では幸助の剣のように、『不壊』しか能力のない宝具は価値が低いのか。そういうわけではない。
宝具は神の力を宿した道具だ。魔法具と違うのは、ダルトラ王かアークスバオナ帝のどちらかの手によって創り出されたものだということ。
そして王にしろ皇帝にしろ、神の力を道具に込めるのは大変に難しいことなのだという。
対象が大きく重くなるほど、神の力を行き届かせるのは難しくなる。
だから宝具は大抵装飾具の形をしている。指輪や腕輪などだ。
幸助やエルマー、グレアが使う『剣の形をした宝具』というのはそれを作った神の血脈が莫大な時間を掛けて『不壊』を施したものなのだ。
その途方もない労力故に、特殊効果が付与されなかった。
特殊効果がない代わりに、決して壊れない武器が手に入る。
幸助は自分の宝具を不満に思ったことはない。
ジャンヌの宝具は異端だ。
元々がどういう形状だったかは分からない。
形状変化の能力を有しているのもいいだろう。
だがこれは。
『黒』が『併呑』したのはただの土だった。
確かに宝具が【黒球】を突いているのに。
起こる筈のないことが起きたが、幸助の思考は止まらない。
――いや、形状変化じゃないのか?
元が指輪ならば、『宝具』と呼べるのはその部分だけなのではないか。
つまり彼女の宝具の能力は、指輪を起点に使用者が想像したものを即時形成するというものなのではないか。
土属性を介さない瞬間創造。
「ふふ、まったく君って奴は」土に『黒』が削られ、球体が割れる。液状に設定しておいた『蒼』を前にジャンヌは動じない。「今のは普通驚くところだろうに」軍服のコートを脱ぎ、投げる。
『蒼』が触れたものは『途絶』する。服の皺はもうずっとそのままだろう。だが被害はそれだけ。
「そんなに冷静でいられると、興奮してしまうじゃないか」
彼女の宝具が無数に分裂し、茨のように絡み合いながら全ての球体を包み、貫き、破壊する。
宝具の効果で生み出されただけの土相手に効果的な働きをすることも出来ず、球体は何の成果も出せずに消える。
幸助の周囲に留めておいた幾つかだけが無事。
「くーろーのーくーん、あーそーぼー。って、ニホンではそう言うんだろう? 次は何して遊ぶ? 門限まではまだ時間があるんだ」
「口の減らない奴だ」
「これ一個しかないんだから、減らすわけにはいかないさ。あぁでも、君がグラスの通信許可出してくれたなら考えてもいいかな? 言葉に出さずとも意思疎通出来るっていうのは便利だしね。代わりに私の口、好きにしちゃっていいよ。なんてね」
幸助は残る球体と『黒』き刃こと【黒喰】を放ちつつ、『黒』を地面に染み渡らせる。
ジャンヌがニッコリと微笑んだ。
「残念、それはもう知ってるよ」
「!」
地面を『黒』く染めたのはジャンヌの機動力を奪う為。宝具の自由度は変えられないのだから、選択の自由を奪おうという発想。
それ自体は間違っていない筈だが、上手くいかなかった。
大地が隆起し、または沈下し、割れるところもあった。
絨毯のように展開されていた『黒』が引き裂かれ、波打ち、流れ落ちていく。
『黒』は何を『併呑』するか選ぶことが出来る。
だから自分の身体に纏わせることも、地面に敷くことも出来るのだ。
地面が隆起してもその設定は変更されない。
だが魔法で大地を動かしたならば『併呑』は機能する。
そこが引っかかった。
――下か。
『黒』と地面が接している箇所ではなく、地中で魔法を発動させたのだ。これならばジャンヌの魔力は地上の『黒』に接触せず、間接的に地面に干渉出来る。
地形が崩れ、ところどころ『黒』に覆われていない箇所が生じていた。ジャンヌは器用にそれらを足場にし、【黒球】と【黒喰】を宝具で適宜対処しながら幸助に迫っていた。
「どんな魔法にも対処法はあるものさ」
単なる『土』属性使いに幸助が遅れをとることはないだろう。
ジャンヌは策だけでなくタイミングも絶妙なのだ。
幸助はゴーストシミターの柄に手を掛けた。
準備は完了 。
◇
クロノが仕掛けてくるつもりなのは分かっていた。
そしてその時が訪れる。
彼の姿が掻き消えたのだ。
――『空間』!
ジャンヌは宝具を剣へと変え、流れるように背後へと振るう――かのように動いた。
確かにクロノの魔力は自分の背後に現れた。
だが彼がそんな単純な攻撃などするだろうか。するかもしれないが、全てはその次への布石。
これもそうだ。
『空間』は連続使用に制限が掛かっている。飛んだ距離が長い程、次の発動までにインターバルが生じるのだ。
ジャンヌの想像では、魔法式に組み込まれた『移動距離』に応じて次の魔法式作成までにインターバルが設けられる類の属性。
普通ならばジャンヌの背後に飛んできたクロノは、すぐに『空間』移動することは出来ない。
その前提を、自分なら利用する。
たとえば、『空間』属性を留まらせておくのはどうだろう。
配置するのだ。扉でも穴でもいいが、そこに触れれば指定箇所へ飛ぶ装置として。
これまでたっぷりと時間はあった。
扉を利用すれば、瞬間的に二度『空間』移動することが可能になる。
一度目で扉に飛び、扉から繋がる場所に飛ぶのだ。
扉の数を増やすのは対応の時間を与えることになるから愚策。
虚を突く為にも一発目で攻撃してくる筈だ。
つまり、背後に現れた彼に大してジャンヌが剣を振るえば。
その瞬間、クロノはジャンヌの背後にいる。
それが最もシンプルで、彼らしい。
ジャンヌの斬撃は半円ではなく、円を描くように放たれた。
背後を振り返ったのでなく、身体を一回転させたのだ。
そしてジャンヌの考え通り、クロノがジャンヌを背中から切ろうと構えていた。
彼は動けない。剣となったジャンヌの宝具、その柄頭からうじゃうじゃと伸びた茨が彼の身体に絡みついたからだ。【黒纏】の抵抗も物量を前には儚いもの。
彼の首はがら空き。
「あぁ、あぁ、死ぬなクロノ!」
ジャンヌは願った。
これも作戦であってくれ。
あっと驚くような何かを見せてくれ。
だが目の前で呆けた顔を晒しているのは紛れもなくクロノ本人であり、そんな彼の首を彼女の刃は容易く刎ねた。
彼の頭部が宙へ巻き上げられる。
「あぁ、そんな! クロノ! なんでだ! なんで死ぬんだ! この程度で! どうして私を越えてくれない! 何故私の想定通りにしか動けない! どうして! どうして人って奴は! 君は神に選ばれた特別な英雄なんだろう!? たった一人二つの人生で転生を許されたんだろう!? 悪神は死んでいないぞ! また失敗するのかクロノ! …………あーあ、こんなも……の、……か?」
ジャンヌの腹からゴーストシミターの刀身が突き出ている。
目の前の死体は動いていない。
だがこれは間違いなく宝具だ。
死んだ人間の宝具で、誰が自分を刺していると言うのだ。
いや、こう考えるべきだ。
自分は彼の策に嵌ってしまった。
「お望み通り、越えてやったぞ」
声。声。死人の。否、クロノの。生きたクロノの声。
「ふっ……は、はっ、はは。これ……誰だい」
ジャンヌは致命的に遅れながらも、クロノのやったことに気付いた。
敗者への情けか、クロノは答えを見せてくれた。
クロノの死体が、元の死体に戻る。見覚えがあった。正確には、形に覚えがあった。
ジャンヌは視覚以外の感覚や『風』『土』属性の魔法、魔力の流れなどで周囲を知覚していた。
その男は。
「リュウセイ、か」
過去生でトワイライトを死に至らしめた張本人で、転生者。グレアの元部下で、死者。
こういうことだ。
前提として、クロノはこの戦場における色彩属性の全てを保有している。
『透徹』と『死』もだ。メタと屍兵から『併呑』したもの。
リュウセイの遺体はグレアが『併呑』した筈だが、殺したのはクロノだし、その際にリュウセイの殺した警備兵の亡骸を彼は回収している。意図的かどうかはこの際どうでもいいが、髪の毛一本でもその時に『併呑』されていれば、そこから『死』を利用しての身体の再生は可能だ。
復活させたリュウセイに、『透徹』の『存在』同期を施し、クロノという人間を被せる。
そして、『透徹』と『存在』がなければ自分がやっていたであろう行動をとらせる。
後はジャンヌが勝手に対応し、自分を殺した気になって落胆したところでグサリ。
同期の影響で首を斬られればクロノも同じダメージを受けるが、事前に魔法式を組んでおけば再生は難しくない。首が斬られてから死ぬまでの間に癒着は可能。その生命力まで含めて英雄。
仮にジャンヌが脳を潰して殺そうとしたならば同期を解けばいい話。
気になるのは屍兵をどこで作りどこに隠していたかだが、答えは知れている。
地中だ。
ジャンヌが『黒』の絨毯を破壊した時に驚いていたのは、何もジャンヌのやり方が予想外だったからではなく。
地中のリュウセイが気取られないかという焦りだったのか。
クロノという男を見誤った。
彼は自分にとても近いが、どうしても違う点がある。
他人を愛してしまっている。
妹を、友を、エルマーの部下達を、大切に思ってしまっている。
そんなものがあるから、ギリギリで人の道を外れられないのだ。そう思っていた。
『霹靂の英雄』や神話英雄をけしかけた『死』属性を迷わず使うことは、ジャンヌが集めたクロノという男のやり方に合致しない。
命に価値を見出しているからこそ、その冒涜はしないと思っていた。
復讐による殺人は清算だが、これは玩弄だ。
しかも、妹を殺した人間に、自分の存在を被せるなど。
彼の心を思えば――そうか!
「お前は俺をよく読んでたよ。見通してた。だから答えは単純なんだ。俺がしないことを、すればいい」
そう。
それこそが、裏をかくということ。
自分の心が許せる範囲で選択するのではなく。
必要なことを選択する。
彼はジャンヌと違い、他者を愛する弱さを抱えながら。
それをジャンヌが読み切ったという事実を利用してみせた。
「あぁ……はっ、ひ、は」
抜けていく。なんだ。血ではない。いや血は流れ出ているが、ジャンヌが今感じているのは出血ではない。戦いの中で感じていた高揚や、勝つ為に回していた思考、そういったものを収めた器に穴が空いてしまっている。全部無駄だったんだと突きつけられながらもスパッと切り捨てることが出来ず、みじめったらしく器を抱えている。それでももう穴は空いてしまったから、ちょろちょろと溢れていくばかり。これはいい気分ではない。苦しい。抱えていたものが多いほどこの苦しみは長くなるのだろう。たった一度の敗北を一生引きずる人間がいるのも頷ける。
そうか、これが。
――敗北感なのか。
知らなかった。目的を果たす道中での苦しみや屈辱は耐えられた。最終的な勝利さえ得られればよかった。
でもこれは種類がまったく違う。
心臓に焼印でも押されているようだ。
ジャンヌは負けたことがない。少なくとも敗北感に苛まれたことはない。
だから、知らなかった。
勝ち続けた自分は、いつしか対等な相手を望むのではなく、自分に敗北を齎す存在を望むようになった。
負けるということが、どんなことかも知らずに。
――あぁ、そうか。
――私はきっと、この感情を知る為に二度目の人生を与えられたのだ。
この苦しみを知る為に。
ならば、知った先でどうする。
どう。どう。どうするって。
自分は全力で遊んで、負けて。
それで、満足出来たか?
正直、すると思っていた。
あぁ負けた! 自分も負けることはあるのだ! 勝利ばかりというのも味気ない。誰とも競えないというのはつまらない! あぁよかった自分に勝てる者も世界にはいるじゃあないか。
そうやって、安心出来るものと思っていた。
だがジャンヌの胸に去来した感情は真逆のものだった。
――あぁそうか私はきっとこの感情を知る為に。
負ける痛みと、そして――負けたくないという思いを知る為に。
この世界に、私は。