271◇悪なる魔のモノ
「……だんちょ」
シリウスが気遣うようにグレアを見ている。失敗なのだから発動を解けと目が語っていた。
「マリア」
「はい」
「終わりだ」
「は、いっ」
ほぼ同時に、二人は魔法を解いた。
途端、脳を手で捏ねられるような痛みがグレアを襲った。慣れているとは言わないが、精神汚染はある段階まで対処が可能。己の芯となる想いを強く意識出来れば、記憶の断絶は回避出来る。
過去生での過ち、失った妻子、転生後に忠誠を誓ったリオンセル、そして仲間達。
何をしてでも、自分が大事に思う者達の未来を勝ち取るのだ。
「ど、どうなったの、かな」
脂汗を浮かべたマリアが、苦しそうに尋ねる。その体は僅かにではあるが、先程より大きくなっているように思えた。おそらく錯覚ではないのだろう。
「……失敗だ」
「そんなぁ……」
がっくし、と肩を落とすマリア。
「陛下に報告しないとデスね。気が重いデスケド」
半ば予想通りだからか、シリウスに落胆した様子はない。
「それは貴様に任せる」
「? 次の任務でも入ってます?」
「あぁ、リーパーに合流し、エルソドシャラルを叩く」
リリス・リパル=リーパー。『紺藍の英雄』。
「停戦に合意したって話でしたケド」
「終戦ではない」
「ナルホド。りょうかいデス」
二人の会話が行われている近くで、イオの沈んだ声が。
「この組み合わせでも解放出来ないとなると、ファカルネってのは一体な……ん」
「え……」
マリアが呆然と声を漏らした。
「だんちょ」
「これは――」
罅、だった。
透明な空間に亀裂が走っている。何故そう認識出来るのか。目の前には、平原が広がっていた。その景色が、歪んで見えるのだ。
「成功……した?」
マリアの言葉に、グレアは否定を返そうとする。『併呑』は出来なかった。だがタイミングが良すぎる。
「失礼。少し尋ねたいことがあるんだが、いいかな」
四人以外の何者かの声。落ち着いた男の声。
それは、罅の向こうから聞こえてきた。
その時にはもう、シリウスの『耀』が罅に向かって殺到していた。幾条もの光線が刹那を駆け抜け、対象を灼き貫く。
「判断が早い。戦士、騎士、軍人。そういった類の人間だね。迷いがなくて中々いい。ただ、僕は過去の過ちから一つ学んでいてね。次こそは徹底すると決めていることがあるんだ。それは――」
「ぅ、あっ……?」
「『やられたら、やり返す』ということ。僕がやるべきだった。そうすれば、息子まで失わずに済んだかもしれないのだから。なんて、君達に言ったところで伝わらないだろうけど」
頭から襤褸を被った、正体不明の、おそらく男。腕も足も二本ずつ。頭もある。人型の生命体。
その男の右腕が、シリウスの胸を貫いていた。握っているのは、心臓か。
有り得ない。最年少で七聖に認定されたシリウスが後れをとるなど。不意を打たれたわけではない。彼は状況に対応出来ていた。それでも遅すぎたというなら、敵は一体――。
シリウスの攻撃を受けたのか回避したのかさえ見えなかった。とにかく無傷。
「これで死なないか。だとするとあれかい? 聖なる神の加護を受けたとかいう……聖者、と言ったかな。その割には清浄な気配を感じな……あれ、君達――おっと」
男がシリウスから離れる。
グレアが『黒』を纏わせた剣で斬り掛かったのだ。
「マリア!」
「はいッ!」
シリウスは意識を失っていないが、治癒魔法を組む余力があるか。マリアの助けがあれば死を回避出来る筈だ。いや、出来る。倒れたシリウスにマリアが駆け寄り、二人を守るようにイオが前に立った。
「……分かってはいたつもりだけど、これは期待薄だな。一体あれからどれだけ経っているのか」
落ち込んだような声の、直後。
死神の鎌がグレアの首を掠めた。
【黒纏】を発動していなければ、確実に喉を裂かれていただろう。
男はいつ作り出したのかも分からない剣を、用は済んだとばかりに放り捨てる。
「言ったろう。『やられたら、やり返す』だ。にしても、見間違いではないようだね。『黒』か。それに、君達、特に君からはあの御方の気配が強く感じられる」
色彩属性を知っている。有資格者を聖者と呼ぶのは主にアークレア神教の教徒だが、それは神話英雄に対して用いられるもので、それ以降は主に修道騎士と呼ばれる。
この男の場合、単に知っている語を口にしただけのようだった。
あれから、というのはいつの時代を指すのか。伝承の一つは真実だったのか。
あの御方というのは、もしや――。
「貴様は何者だ」
「あぁ、いいね。話し合い、文明的だ。情報交換といこうか」
「答えろ」
「下手には出ない、か。うん、まぁいいかな。友人を殺されかけた怒りもあるだろうし、ここは僕が折れよう。それによく考えてみれば、此処を出れたのは君のおかげだろうし」
「……なんだと」
「あの御方の祝福を受けたんだろう? 単なる『黒』の遣い手ではなくなっている」
何も『併呑』出来なかった、それは事実。
だが『黒』とは別のところで、悪神に渡された力が働いたというのか。
確かに前回の敗北の後、グレアは悪神に更なる力を望み、与えられた。
あの御方というのは――悪神か。
「僕が何者か、だったね。知らないということは、あの件は後世には伝わっていないのか。まぁややこしくなるものな。なんて言えばいいか。そうだ、こうしよう。今から言う存在の中で、知らないものがあったら言ってくれ。神、悪神、天使、聖者、亜人、獣人、魔人、魔獣。どうだい」
知らない存在はない。
「足りないものがある。それが僕達だ」
「……あく、ま」
治ったのか、上体を起こしたシリウスが呟いた。
「そう。悪魔だ。神に仕え人を試す天使、悪神に仕え人を誑す悪魔。でもそうか、その反応からするに歴史から省かれてしまっているか。そうだよな、人魔大戦だものな。あの御方に与する人間の存在は不都合というわけだ」
確かに、アークレアに悪魔という存在はいない。
いたが、後世に伝えられなかったのか。
歴史に抹消された存在が、世に放たれた。
おそらく、グレアの所為で。




